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私の入院生活は予定より少しだけ早く終了した。
自分の部屋に戻って三日ほどは母が傍にいて、私を手伝ってくれた。
「お母さん、色々ありがとうね」
礼を言う私に、母は少しだけ寂しそうに、けれど楽しそうにも見える顔で、こう言った。
「今はこんな時でもないと、瑞月のこと、お世話できないからね」
その母は今日、父の待つ家に戻って行く。
玄関まで見送りに出た私に、母は心配そうな顔を見せた。
「ねぇ、瑞月。またこんなことがあったらと思うと、お母さん、不安でたまらないのよ。栞ちゃんたちが近くにいると言っても、一緒に住んでいるわけじゃないでしょ?もしも今、特にお付き合いしている人がいないんだったら、こっちに帰って来たっていいんじゃないの?」
唐突な話に私は戸惑った。
黙っている私を見て、母はため息をつく。
「まぁね……。あなたの都合もあるだろうし、仕事だってすぐにやめられるわけではないだろうからね。ただ、そういうことも少し考えておいてね。だって、地元でだって働けるでしょ?なんだったら、お見合いでもして結婚したっていいわけだから」
もちろん私にそんなつもりはまったくない。かと言って、これから帰ろうとしている母に、この慌ただしいようなタイミングで、諒とのことを話したくもなかった。それはまた今度改めて話そうと考えて、私はひとまず曖昧に笑い、母の言葉を聞き流した。
その夜、栞が訪ねてきた。重たそうな買い物袋をぶら下げている。何やら色々と買い込んできてくれたようだ。
「その後具合はどう?」
「ありがとう。だいぶ、楽になったよ」
身動き一つするだけで激痛が走った初めの頃と比べようがないほど、良くなっていた。何かの拍子に体の所々がずきりと痛みはするが、まったく動けないわけでも、歩けないわけでもない。昨日受けた諒の診察では、来週か再来週あたりから仕事に行ってもいいだろうとの診断をもらっている。
「とにかく上がって!」
「お邪魔します。ところで瑞月、晩ご飯はもう食べた?」
「これからだよ。お母さんが明日の分まで、色々と用意していってくれたの」
「そっか。今日までおばさんがいたんだったね。食材の他にお惣菜も買ったんだけど、ちょっと買いすぎたかな」
キッチンで買い物袋の中身を広げていた栞は、うぅんと唸った。
私は彼女の傍に行き、その手元を見る。
「わぁ、すごく助かる。だけど、これ全部、本当に頂いちゃっていいの?」
「もちろんだよ。そのために買って来たんだもん」
「栞、ありがとね」
「瑞月や凛ちゃんみたいに、食材からぱぱっと料理してあげられたらいいんだけどね。料理教室に行き始めたはいいけど、なかなか身にならなくて……」
自虐的な苦笑を浮かべる栞を私は励ます。
「そんなことないでしょ。ほら、いつだったっけ。栞が作ってくれた麻婆豆腐、すごく美味しかったよ」
「そう言ってもらえると嬉しいけどさ……」
「でも、栞のとこって、旦那さんがお料理上手でしょ?いいね」
「確かに旦那は料理が上手だわ。だから、すごく助かってる。例えば仕事で疲れて帰って来て、これから料理しなきゃならないのか、なんて思わなくていいんだもん。あたしの方が残業で帰りが遅くなった時なんか、ちゃんとご飯が出てくるしね」
「小学生の時だったかな。栞、諒ちゃんと口喧嘩した時言ってたよね。今どきの男子は、料理ができる方がモテるんだ、とかなんとかって」
「あはは。そうだったかも。あたし、まさにそういう人を選んだわね」
幼馴染は照れたように笑った。
その様子を可愛いと思いながら見つめていた私に、栞が質問を投げかけて来た。
「で、いつからなの?」
「へ?」
質問の意図が分からず、私の口からは間の抜けた声が出た。
栞はにやにや笑っている。
「とぼけなくてもいいって」
「何を?」
私はきょとんとして訊き返した。
すると栞は、一文字一文字をあえて区切るようにして言う。
「お・に・い・ちゃ・ん」
「えっ!」
栞の不意打ちに心の準備がなかった私は動揺した。
栞はくすっと笑う。
「あの日の病室での二人の様子。あたしが気づかないとでも思った?付き合ってるんでしょ?うちの愚兄とさ」
頬が熱くなる。私はこくんと首を縦に振った。
「でも、隠してたわけじゃないんだよ?本当に色々あって、それで話すタイミングがなかなかなかったっていうか……」
「そんな焦った顔しなくても大丈夫だよ。どうして黙っていたの、とか言って責めるつもりはないんだから」
栞はふふっと笑い、しみじみとした口調で言う。
「そっかぁ。ようやくかぁ。お兄ちゃんには、おめでとうって言っていいんだろうな。で、瑞月には、これから兄をよろしく、でいい?」
栞の言葉に引っ掛かりを覚え、私は訊ねる。
「諒ちゃんには『おめでとう』って、どういう意味なの?」
「だって、お兄ちゃんはだいぶ昔から、瑞月を好きだったみたいだからさ。でも肝心の瑞月は、お兄ちゃんのこと、そういう対象として全然見ていなかったでしょ?瑞月に相手にされていないお兄ちゃんのこと、あたしずうっと、なんてかわいそうなんだろうって思ってたのよ。だけど今回、ようやくその気持ちが報われたということで、だから、お兄ちゃんにはおめでとう、っていうわけ」
「そう、だったんだ……」
栞の言う「だいぶ昔」がいつ頃のことかは分からないが、ふと思い返してみれば、彼女から意味ありげな言葉をかけられたことが何度かあった。
栞はにっと笑う。
「それで?結婚はいつなの?」
「えっ、そ、そんなの、付き合い始めて、まだそんなに時間がたっていないから……」
そうなったらいいなとは思うが、諒とはまだそういう話をしたことはない。
「あたしとしては、このまま二人がうまく行けばいいなって思ってるんだけどな。ひとまずは静かに見守ってるね。ところで瑞月、ごめん。夕食一緒にできなくて悪いんだけど、あたし、そろそろ帰るね。近いうちにまた来るよ。ん?待って?あたし、来ない方がいいの?」
首を捻る栞に私は苦笑する。
「そんなこと言わないで、いつでも来て」
「お邪魔にならない程度に来るね。もちろん事前に連絡するから」
栞の顔にはやっぱりにやにや笑いが浮かんでいた。