テラーノベル
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サベリオが姿を消したあとも、稽古は止められなかった。
止めたところで、噂も期限も待ってくれないからだ。
けれど橋の下の空気は、明らかに重かった。
デシアが台本を読み直していても、モルリの声は少し空回りし、ヌバーの軽口も半歩だけ遅れる。ミゲロは作業に没頭しすぎて、返事がいつも以上に短い。ホレは全体を回そうとするほど、みんなの不機嫌まで拾ってしまう。
ジャスパートが流す雨音さえ、今日は冷たく聞こえた。
その日の片づけが終わり、最後に残ったのはヴィタノフだった。
彼はいつものように照明機材の確認をしていた。無口で、必要なこと以外ほとんど言わない男だ。けれど誰がどんな顔で帰ったかは、たぶん一番見ている。
橋の上にはもう夜しか残っていない頃、彼は一人で空き店舗へ向かった。
サベリオがそこにいると思ったのは勘だったのか、あるいはいつもの癖を知っていたのか。
シャッターの半分下りた店の中で、サベリオは舞台代わりの空いた床を見つめていた。
明かりはついていない。外の街灯が細く差し込むだけだ。
ヴィタノフは何も言わず、奥へ入り、持ってきた小さなスポットを一つだけ置いた。
ぱち、とスイッチを入れる。
淡い光が、店の中央の一角だけを丸く照らした。
サベリオは目を細める。
「何してる」
ヴィタノフは肩をすくめた。
「暗かった」
「そういう意味じゃない」
返ってきたのは沈黙だった。彼は照明の角度を微調整し、それからサベリオの方を見た。
言葉は少なくても、視線だけで促すことがある。
光の円の中へ入れ、と。
サベリオは苦く笑う。
「嫌だ」
ヴィタノフはうなずきもしない。代わりに自分がその光の中へ入り、すぐ外へ出た。お前でもできる、というより、入っても死なない、くらいの雑な励まし方だった。
サベリオはしばらく抵抗したが、最後には一歩だけ光へ入った。
明るいわけではない。むしろ弱い灯りだ。なのに、立った途端に逃げ場がなくなる。
舞台の真ん中は、いつもそうだ。
彼は視線を落とした。
「向いてないんだよ」
ヴィタノフはしばらく黙ったあと、短く言う。
「向き、不向きじゃない」
「じゃあ何だよ」
「まだ、立ってないだけ」
サベリオは言い返せなかった。
言葉は少ないくせに、変なところだけ刺さる。
しばらくして、彼はぽつりと漏らした。
「俺が壊したって、みんな思ってる」
ヴィタノフは首を横に振る。
「お前は壊してない」
その一言が、あまりに迷いなく落ちたので、サベリオは顔を上げた。
「なんで分かる」
「見てたから」
「……何を」
「お前の顔」
単純すぎる答えだった。
でも、単純なものほど嘘がない。
事故のあと、誰も彼の顔をちゃんと見なかったのかもしれない、とサベリオは思う。責任者を決める方が早かったから。説明のつかない優先順位や、誰かをかばった動きや、泣きながら機材を押し返していた手の震えなんて、誰も見なかった。
見ていた人が一人だけいた。
それだけで、胸の奥に溜まっていたものが、急に崩れた。
サベリオは顔を背けたまま、低く笑った。
「今さら言うなよ」
声の最後が少しだけ揺れた。
ヴィタノフは見ないふりをした。スポットの角度をさらに直し、店の壁へ向いたまま立っている。
その不器用な優しさが、ありがたかった。
光の円の中で、サベリオはようやく一度だけ、誰にも見られずに泣いた。
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