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翌朝、サベリオは久しぶりに時計塔へ上った。
ほとんど眠れないまま、空が白み始める前に家を出ていた。橋のたもとの石段は夜露で冷たく、靴裏がわずかに滑る。塔の扉を押すと、油と金属の匂いが胸のざわつきを少しだけ鎮めた。
コスタチンはもう起きていた。
小さなやかんを火にかけ、何でもない顔で言う。
「目の下、ひどい」
「そっちも」
「わしは年」
「便利だな」
やり取りのあと、サベリオは文字盤の裏へ回った。巨大な歯車の列は相変わらず静かだが、手を入れればまだ鳴れる。そう信じられる沈黙だった。
コスタチンが湯気の立つカップを差し出す。
「飲め」
受け取った温かさに少しだけ息が戻る。
サベリオは昨夜のことまでは話さず、代わりに別の問いを口にした。
「事故の夜、塔の記録って残ってるか」
コスタチンの眉がわずかに上がる。
「急だな」
「知りたいだけ」
「知りたい顔してる時は、大抵もう半分知ってる時だ」
老人はそう言いながらも、棚の奥を探り始めた。古い帳面が何冊も重なっている。紙の角は丸くなり、背表紙の文字も薄れている。
そのうちの一冊を取り出し、机へ置く。
「塔の保守簿だ。鐘、針、滑車、吊り金具、立入点検。全部書いてある」
サベリオはページをめくった。年月ごとに細かい字が並ぶ。歯車の油差し。釣鐘の偏り。滑車の摩耗。事故の年のところで、指が止まる。
同じ月に、妙な記述が二つあった。
ひとつは、舞台用の仮設機材搬入に伴う通路使用の申請。もうひとつは、鐘の吊り部周辺の一部部品が「保管移動」とだけ書かれて、保管先が空欄になっていること。
サベリオは眉を寄せた。
「空欄?」
「その頃、塔の下を上演準備でも使ってた」
コスタチンが答える。
「人の出入りが増えて、わしも何度か道具を避難させた。けど、そこは変だな」
サベリオは帳面をさらに追った。数日後に、吊り金具の点検未了。別ページには、舞台装置の荷重確認予定。だが肝心の確認済みの印がない。
胸の奥がざらつく。
事故当夜、落ちたのはシェルター側の装置だった。町はそれを「整備不足」で片づけた。
けれど、もし荷重確認がされていなかったなら。もし塔の記録と上演の記録が途中で切れているなら。
「……最初から、変だったのか」
コスタチンはカップを置き、椅子へ深く座り直した。
「壊れた物には、壊れるまでの順番がある」
その声は静かだった。
「一つだけが悪いとは限らん。締め直さなかった者、見て見ぬふりした者、都合よく書かなかった者。そういうのが重なって、最後に音がする」
サベリオは保守簿を見つめたまま動けなかった。
自分一人の失敗ではなかったかもしれない。
そう思えたのと同時に、では誰が、どこで、何を隠したのかという別の闇が口を開く。
「資料室にも、別の記録があるかもな」
コスタチンが言う。
「市の書類は市にある。塔のことだけならわしでも追えるが、舞台の搬入や許可は向こうだ」
サベリオは帳面を閉じた。
頭の中に、デシアの封筒が浮かぶ。アルヴェが渡した記録。まだ全部は言えないと言った顔。
今なら少しだけ分かる。言えない理由が、単に自分を遠ざけたいからではない可能性も。
だが、分かることと許せることは別だ。
コスタチンはサベリオの顔を見て、最後にぽつりと言った。
「お前が壊したんじゃないなら、誰が壊したのかを追うしかない」
その言葉は、責める声ではなく、仕事を渡す声だった。