テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#すれ違い
おまる
#ワンナイトラブ
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
翌朝、晴哉が出社した時、三階のフロアにはまだ朝の冷たい光が残っていた。
昨夜の仮眠室のことを思い出すたび、胸の内側が少しだけ落ち着かなくなる。毛布の端を持ち上げた指先、寝息に混じった小さな「ありがとう」、返事をしなかった自分。どれも大げさな出来事ではないのに、言葉にすると形が変わってしまいそうで、晴哉は社員証を首に掛け直しながら小さく息を吐いた。
席に着くと、麗はすでに来ていた。いつも通り髪をまとめ、いつも通り資料を整え、いつも通り時刻入りの進行表を並べている。昨夜の気配だけが、きれいに切り取られていた。
「おはようございます」
晴哉が声を掛ける。
「おはようございます」
麗は顔を上げた。
「昨日、仮眠室で受け取った資料、机の上に置いておきました。確認済みです」
それだけだった。ありがとうも、眠ってしまったことへの気まずさもない。晴哉は一拍遅れてうなずく。
「助かります。……ちゃんと休めましたか」
「少しだけ」
麗は紙をそろえながら言った。
「何も問題ありませんでしたよね」
「え」
「昨夜のことです。仕事が片付かなくて仮眠室を使った。それだけです」
念を押すような口調ではない。むしろ、余計な意味を持たせないために線を引いている声だった。晴哉はその意図をすぐに理解した。昨夜のままの温度で返せば、麗を困らせる。そう思って、笑う。
「もちろん。何もなかったです」
「なら、よかったです」
それで会話は終わった。
誰も傷つけないように置いた言葉のはずだった。けれど、席へ戻る途中で晴哉は、自分がたった今、昨夜の静けさを自分の手で遠ざけたのだと気づいた。
午前中の再確認で、スナップボタンの押し位置の修正はようやく目途が立った。優元が試験結果を共有し、知雅が量産に回せる寸法を示す。図鑑も、親子の会話から始まる見開きに差し替えたことで、取引先の反応がやわらいだ。仕事は確かに前へ進んでいた。
だが、晴哉の動きは前日までと少し変わった。昼過ぎから携帯電話を見る回数が増え、定時が近づくと時計より先に外の空を気にする。十七時半、父から短いメッセージが入る。
〈腰、ちょっときつい。悪いが早めに戻れるか〉
晴哉はスマートフォンを伏せた。隣の島では悠太朗が取引先へ電話を入れていて、夢鈴は動画用の仮ナレーションを妃雛と揉めながら録り直している。フロア全体が忙しさでざわついている中で、自分だけが別の時間に引っ張られる感じがした。
「晴哉さん」
麗の声が飛ぶ。
「図鑑の修正版、先方へ送る前に一度だけ文面を見てください」
「はい、すぐ」
返事をしたものの、文面を読み終えた頃には、また父から着信が入っていた。祖母一人では樽を動かせないらしい。今日はどうしても店へ戻らなければならない。晴哉は立ち上がり、麗の席へ近づいた。
「すみません、先方への送付だけ先にお願いしてもいいですか。確認コメントは入れてあります」
麗が目を上げる。
「晴哉さんが送る予定でしたよね」
「実家のほうで、ちょっと」
そこまで言って、晴哉はいつもの癖で口元を整えた。
「大丈夫です。遅い時間には戻れると思うので、追加の連絡はその時に」
麗は何か言いかけたようだったが、結局「分かりました」とだけ返した。
晴哉は鞄をつかみ、早足で会社を出た。夕方の駅前は春休みの子ども連れで混んでいて、商店街の八百屋には新玉ねぎが山になっていた。実家へ着くと、父は勝手口の椅子に腰を下ろし、いつもより浅い呼吸で笑った。
「悪いな。持ち上げた時に、ちょっとやった」
「ちょっとの顔じゃないだろ」
「店は開けられたから十分だ」
祖母が台所から顔を出す。
「ぬか床の樽、裏へ動かしたいんだけどねえ。あんたが来るまで待ってたのよ」
スーツの袖をまくり、晴哉は樽を抱えた。重みが腕に食い込み、遅れてきた疲れが背中へ広がる。それでも手を止めなかった。白菜を刻み、容器を洗い、伝票を揃え、閉店後の床を拭く。台所の隅には、昨夜と同じように母の古い設計メモが置かれていた。倉庫から持ち帰ったコピーを、祖母が汚れないようクリアファイルに入れてくれている。
〈片手でも閉じられること〉
〈暗い道で握りやすいこと〉
〈親が子に説明しやすいこと〉
その字の横に、母自身が別の日に書き足したらしい小さな一文があった。
〈大丈夫、は便利だけど、便利すぎる〉
晴哉は手を止めた。台所の換気扇が回る音の向こうで、祖母が包丁を置く気配がする。母は、誰かを安心させるために「大丈夫」と言う人だった。けれど、その言葉が多すぎると、本当は助けてほしい時まで隠してしまう。そんなことを、あの人は知っていたのかもしれない。
会社でも家でも、自分はずっと同じことをしてきた。笑って、大丈夫だと言って、相手を先に楽にして、自分の遅れや重さは後回しにする。そのたびに、たぶん誰かには、何も伝わらないまま距離だけが残っていた。
その夜、晴哉は結局会社へ戻れなかった。優元から来た確認事項にだけ返信し、麗宛ての進捗報告は「遅れます。大丈夫です」と短く打って、送信ボタンの前で止めた。大丈夫の中身が何も入っていない。そう思ったが、別の言い方もすぐには見つからず、結局そのまま送った。
一方、会社では麗が最後の確認をしていた。晴哉から届いた短い文面を見て、パソコン画面に視線を戻す。
遅れます。大丈夫です。
たったそれだけの文だ。家の事情かもしれない。急な手伝いかもしれない。そう頭では分かる。けれど、理由のない余白は、人を待たせるほど大きく見える。
資料を持って総務へ向かう途中、沙央梨が複合機の前で声を掛けた。
「顔、固い」
「そう見えますか」
「見える」
沙央梨は用紙をそろえながら言った。
「仕事ができる人ほど、言わなくていい我慢まで抱え込むのよ」
「……誰のことですか」
「自分で考えて」
それだけ言って去っていく背中は、いつも通り短い。だが、麗はその場で少しだけ足を止めた。
我慢しているつもりはなかった。進行が遅れないように、必要な確認をしているだけだと思っていた。けれど、昨夜のことをなかったように片づけたのは誰だっただろう。困らせたくないからと踏み込まなかったのは、思いやりだったのか、それとも怖さだったのか。
夜九時を過ぎ、会議室はひとつずつ照明が落ちていく。麗は空いた会議室へ入り、ノートパソコンを開いた。画面には共有フォルダと進行表、そして送られてくるはずの更新報告の欄が並んでいる。
晴哉からの報告は、まだ来ない。
静かな室内で、時計の秒針だけが妙に大きく聞こえた。麗は椅子に深く座り直し、もう一度受信トレイを更新する。何も変わらない白い画面が、やけに冷たく見えた。
避けられているわけではない。そう言い聞かせるたび、胸の奥に細い棘のような違和感が残る。
昨夜、毛布を掛けられたあの手の温度を、思い出したくないのに思い出してしまう。何もなかったと自分で決めたはずなのに、その「何も」が、なぜか今夜はいちばん苦しかった。
麗は画面の端に表示された未受信のままの報告欄を見つめた。
白い空白は、説明のない沈黙によく似ていた。