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夜。
晃司とのやりとりのあと、何も言わず風呂に入り、無音で部屋へ戻る途中。
廊下の角を曲がった瞬間、沙耶香がいた。
白い部屋着。爪に赤い光。
顔は笑っていたが、目はまったく笑っていない。
「……あんた、また泣いた顔してるね」
沙耶香の声は優しかった。異常なほどに、柔らかく。
「……泣いてねえ」
反射的に遥は言葉を返した。自分の声の小ささに、自分が怯える。
「ふぅん。じゃあ、その赤いとこ、何?」
沙耶香の指が、遥の首のあたりをなぞる。
うっすら残った指の痕──晃司の手の跡。
「……あーあ」
舌打ちみたいな笑い声が落ちる。
「いい子にしてれば、そんなふうにされないのに。まだわかんないんだ?」
沙耶香は遥の前髪を軽く払う。触れ方だけは優しい。
でも、遥の背筋が凍る。
「ほら、うちに来てから、何年経ったっけ? 十年は過ぎた? ……あんた、“犬”でももっと学ぶよ?」
笑顔のまま、沙耶香は壁に寄りかかる。
「何回、玲央菜に物隠された? 何回、颯馬に足引っかけられた? あんた、それでも誰にも言わなかったよね。……なんで?」
遥は答えない。
答えたら、何かが割れる。
「“優しい”って思われたかった?」
沙耶香が一歩近づく。
「違う」
また、無意識に反論してしまう。
自分でも驚くほど早く、口が動いた。
「……へぇ」
沙耶香が笑う。ほんの一瞬、静かに。
「ほんとはさ、あんた、ずっと思ってたんでしょ? “俺だけがこんな目に遭ってる”って。 “誰か、気づいて”って。……ねえ、そうなんでしょ?」
遥の心がひとつ、はじけたような音を立てた。
「でもさ、“俺かわいそう”って顔して、蓮司に近づいたら、あんた、ほんとに終わるよ?」
声の調子は変わらない。
ただ、その言葉の裏には、絶対的な“本妻の子”の冷酷があった。
「──だって、蓮司、“私だけ”に見せる顔あるから」
「……っ」
「わかってるよね。あんたがどれだけ汚くても、壊れても、蓮司は……私しか見ないの」
沙耶香の爪が、遥の手首に軽く食い込んだ。
「お父さん、言ってたよ。“あれは、女の器じゃない”って」
「……」
「でも、私はね。ちゃんと“家族”やってる。あんたの何倍も、ちゃんとした“人間”なんだ」
ぐらぐらと、頭が揺れる。
遥は黙ったまま、沙耶香の顔を見られなかった。
でも、背中がまた一枚、剥がれていく。
「言っとくけど、私、蓮司に全部話してるから。……あんたがどうやって、晃司に“かわいがられてるか”も、ね」
その言葉は、声にならない爆音だった。
沙耶香が去ったあと、遥は崩れ落ちるように、廊下に座り込んだ。
痛みが、感情じゃない。
ただの“正しさ”として、身体に食い込んでくる。
──この家にいる限り、自分の存在は間違いだ。
その“前提”を、また強く思い知らされていた。