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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
役員会が終わったあと、片づけや挨拶が続き、気づけば外はすっかり夕暮れになっていた。
会場を出たクリストルンは、ようやく一人で息をつこうとして、見慣れた坂道の途中で足を止めた。
夕陽が道の端を赤く染め、月椿堂の看板が長く影を落としている。
疲れているはずなのに、胸の中だけが妙に落ち着かない。
「先に帰ると思った」
後ろから声がして振り返ると、ルチノが立っていた。
「片づけは?」
「終わった」
「早いね」
「今日は、話すって決めてたから」
展示会の朝に聞いた言葉が、ようやくここまで追いついてきた。
クリストルンは少しだけ息をのみ、それから坂道の脇へ寄った。
「……逃げてないよ」
「知ってる」
ルチノは一歩だけ近づく。
「でも、逃げ場は作らない方がいいと思った」
相変わらず真面目で、少し不器用で、そのくせ変なところだけ強引だ。
クリストルンは笑いそうになって、けれど笑う余裕がすぐには出てこなかった。
ルチノは視線をそらさずに言う。
「俺は、君の隣で仕事をしたい」
「それは今もしてる」
「そうじゃなくて、その先もだ」
短く息をついてから、言葉を選び直す。
「仕事も人生も、長く一緒に作っていきたい」
夕暮れの風が、坂の上からゆっくり吹き下りてくる。
質屋の店先に置かれた椿の鉢が、かすかに揺れた。
クリストルンはすぐには返せなかった。
驚いているわけではない。むしろ、どこかで待っていた言葉だった。
けれど、その重みを軽く受け取りたくなかった。
「私、たぶん、仕事を言い訳にしがちだよ」
「知ってる」
「走り出すと周り見えなくなるし」
「知ってる」
「たまに無茶するし」
「よく知ってる」
「それでも?」
「それでも」
即答だった。
そのまっすぐさに、クリストルンの胸の奥で何かがほどける。
「じゃあ」
少しだけ考えてから、彼女は笑った。
「まずは明日の会議から、一緒に戦って」
ルチノが目を瞬く。
「それが返事?」
「大事でしょ、明日の会議」
「大事だけど」
「仕事も人生もって言ったの、そっちだよ」
「……そうだけど」
困ったように笑う顔が珍しくて、クリストルンはとうとう吹き出した。
それから、一歩だけ自分から近づいて、そっと手を差し出す。
「これからも隣にいて」
今度はルチノが息を止めた。
そしてゆっくり、その手を取る。
「いる」
「うん」
「たぶんじゃない」
「そこは強いんだ」
「そこは強い」
繋いだ手は熱すぎず、でも確かだった。
恋の始まりというには、ずいぶん遠回りをしてきた気がする。
けれど、その遠回りがあったからこそ、今の一歩は軽くなかった。
坂の下から、モンジェの大きな声が飛んでくる。
「おーい! 店の前でいちゃつくなら、せめて看板の掃除してからにしろー!」
「いちゃついてない!」
クリストルンが即座に返すと、ルチノが横で吹き出した。
夕暮れの坂道に、笑い声が転がる。
ようやく返せた返事は、思っていたよりずっとやわらかく、明るい形をしていた。