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#すれ違い
おまる
#ワンナイトラブ
午前九時一分、本社三階の会議室へ滑り込んだ晴哉の背中で、扉が閉まった。
長机の上には、防犯ブザー「夜道まもる」の試作品、スナップボタン付きマルチポーチのサンプル、親子向け小冊子「まちのあんしん図鑑」の校正紙が並べられている。どれも、三月末の売場立ち上げに向けて最後の詰めに入っているはずのものだった。だが、室内の空気は、春物の会議に似合わないほど重かった。
製造管理の優元が、防犯ブザーの外装を机の上に置いた。淡い黄色の樹脂部分に、白い筋が入っている。
「落下試験の回数を増やしたら、この部分から割れました。通学バッグの中でぶつかる程度でも、条件次第ではひびが入ります」
続いて、商品開発の知雅がポーチを開き、スナップボタンを留めた。ぱちん、と音は鳴ったが、指先の小さな子どもなら、かなり力を入れなければ閉じられないのが見て取れた。
「試用モニターの小学一年生三人中、二人が途中で諦めました。押す向きも分かりにくいです」
さらに広報の夢鈴が、赤字だらけの校正紙を持ち上げる。
「図鑑、差し戻しです。『親向け説明が硬すぎる』『子どもが一緒に読めない』って。取引先の売場担当さん、かなり真顔でした」
会議室のあちこちで、短いため息が重なった。
晴哉は資料をめくりながら、喉の奥で小さく息を吐いた。重くなりすぎた空気は、たいてい言葉一つで少しだけ緩む。そう思って、口を開く。
「逆に言えば、今分かってよかったってことですよね。発売当日に割れるより百倍ましですし。ここから巻き返しましょう」
冗談めかさないよう気をつけたつもりだった。けれど、すぐ斜め向かいから冷えた声が飛んできた。
「巻き返す前に、資料を直してください」
進行管理の麗が、手元の紙を軽く持ち上げた。白い指先が、会議用の進行表の右上を示す。
「この工程表、昨日十九時更新になっていますけど、添付された修正版は二十時十二分作成です。時刻の表記が揃っていません。しかも、ポーチの試用結果が旧版のまま残っています」
会議室が静まり返る。晴哉は一拍遅れて、自分の手元の紙を見た。たしかに修正途中の版が混ざっていた。
「すみません。差し替えます」
「あと、図鑑の戻し理由を『表現調整』でまとめないでください。親子で読む冊子と、店頭で手に取る説明物では、直す場所が違います」
言い方は静かなのに、逃げ道だけがきれいに塞がれていく。晴哉は謝りながらも、胸の内で小さく眉をひそめた。会議の空気を前に進めたい時に、そこまで一分一秒を責めなくてもいいだろう、と。
一方の麗は、晴哉の返事を聞きながら、心の中で別の線を引いていた。問題が三つ同時に出ている朝に、曖昧な励ましで場をつないでも前には進まない。笑顔でやわらげる人ほど、あとで抜けた穴を誰かに縫わせる。そういう場面を、これまで嫌というほど見てきた。
会議は予定より二十二分延びた。優元は再試験の条件を洗い直し、知雅はボタン部の形状変更案を午後までに出すことになった。夢鈴は図鑑の誌面を全面的に組み直し、晴哉は取引先への説明と社内の調整を引き受ける。麗は全工程を一度白紙に戻し、今夜中に新しい進行表を作ると告げた。
席を立つ頃には、誰の顔にも疲れが浮いていた。
会議室を出たところで、悠太朗が晴哉の肩を軽く小突いた。
「朝から刺されたなあ。大丈夫か」
「平気平気。ああいう人なんだろ」
晴哉は笑ってみせたが、口角がうまく上がっていないのを自分でも分かっていた。
「でも、おまえも資料ミスは珍しいじゃん」
「昨日、実家がちょっと立て込んでてさ」
そこまで言って、晴哉は話を切った。言い訳に聞こえるのが嫌だったし、会議室の外で家庭の事情まで広げる気にもなれなかった。
昼も夕方も、晴哉はほとんど席にいなかった。取引先に電話を入れ、製造の確認に走り、戻れば夢鈴に捕まり、今度は知雅と仕様変更の打ち合わせをする。途中で何度か麗とすれ違ったが、彼女はそのたびに時計を見るように視線を走らせ、必要なことだけを短く告げた。
「十五時の外装確認、場所が二階の試験室に変わりました」
「ありがとうございます」
「図鑑の差し戻し理由、分類して共有します」
「助かります」
それだけだ。無駄がないと言えばそうだが、紙で会話しているようでもあった。
夜、退勤後の晴哉は、駅前の商店街を抜けて実家の漬物店へ向かった。暖簾を外した店先には、白菜樽を洗ったあとの水の匂いが残っている。裏口から入ると、父が中腰のまま木箱を持ち上げていて、祖母が帳場で伝票を束ねていた。
「おかえり。悪いな、浅漬けの容器、こっちへ頼む」
「了解」
晴哉はスーツの上着を脱ぎ、袖をまくって容器を運んだ。冷蔵庫の開け閉め、樽のふたの確認、明朝分の値札の差し替え。会社とは違う種類の忙しさが、手を止める隙なく続いていく。
ひと段落したころ、父が腰を伸ばしながら言った。
「会社でも、また愛想で抱え込んでるんじゃないか」
「なんで分かるの」
「おまえ、しんどい時ほど声が軽くなる」
晴哉は思わず笑った。図星を突かれると、反射で笑ってしまうのは昔からだ。
「大丈夫だよ。今日はちょっと立て直しが多かっただけ」
「その“大丈夫”が怪しいんだよなあ」
父はそう言ったが、それ以上は追及しなかった。代わりに祖母が、小皿にたくあんを二切れ載せて差し出してくる。
「噛めば落ち着くよ。忙しい人ほど、ちゃんと噛まないからね」
塩気の奥に、わずかに甘みがある。子どもの頃から食べてきた味は、疲れている時ほど舌の上で輪郭がはっきりした。
店を出たあと、晴哉は鞄の中を探って息を止めた。取引先へ渡す予定だった修正版の見本帳が入っていない。会議室の棚だ。明日の朝一番で必要になる。
引き返して本社に戻ると、建物の大半は消灯していた。警備員に会釈をして三階へ上がる。廊下の窓ガラスに、遅い時間の自分の顔がぼんやり映った。
会議室の手前で、灯りが漏れているのに気づく。
中をのぞくと、麗が一人でノートパソコンに向かっていた。壁の時計は二十二時四十分を指している。机の上には色分けされた付箋、修正前後の工程表、赤いペン、空になった紙コップ。昼間と同じ整った姿勢のままなのに、髪だけが少し乱れていた。
晴哉は声をかけるか迷って、結局、扉を二度だけ軽く叩いた。
麗が顔を上げる。その目に、一瞬だけ驚きがよぎった。
「……忘れ物ですか」
「見本帳、置きっぱなしで。新しい進行表、まだやってたんですね」
「今日の遅れは今日のうちに整理したいので」
答えながらも、麗の指は止まらない。画面の表には、部署ごとの細かい作業が一時間単位で並び直されていた。昼間、容赦なく指摘してきた人だというのに、その表のひとつひとつが、誰かを責めるためではなく、明日混乱しないようにするための線に見えた。
晴哉は机の端に置かれた紙束を見て、思わず言った。
「……ありがとうございます」
麗はきょとんとしたように目を瞬かせた。
「何に対してですか」
「いや、その、みんなが動ける形に直してくれてるから」
しばらく間があった。麗は視線を画面に戻し、それから静かに言った。
「動ける形にしないと、守れないので」
短い言葉だった。けれど、その最後だけが、少しだけ柔らかく耳に残った。
晴哉が見本帳を手に取って出ようとした時、麗が引き出しを開けて何かをしまうのが見えた。古い防犯ブザーだった。今の試作品より一回り大きく、角の塗装が剥げている。彼女はそれを無意識のような仕草で握り込み、すぐに手を離した。
その一瞬にだけ、昼間の硬さとは違う表情がのぞいた。張りつめた糸の奥に、消えない古い傷のようなものがある気がした。
会議室を出たあとも、晴哉の足はすぐには廊下を曲がらなかった。
笑って誤魔化す人だと思われたことに、少し腹が立っていた。
けれど、厳しいだけの人だと決めつけた自分も、たぶん間違っていた。
閉まりかけた扉の向こうで、キーボードを打つ音がまた規則正しく鳴り始める。晴哉はその音を背中で聞きながら、見本帳を抱え直した。
明日もきっと、簡単な一日にはならない。
それでも、あの人が何を守ろうとしているのかだけは、もう少し知りたいと思った。