テラーノベル
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あのマンションで木蓮と一夜を共にした事が露呈した今、810号室の鍵を持ち続けてはならない。そう考えた雅樹はマンションの部屋を解約しようと決意した。
(……..ただそれで解決する訳じゃない)
全てに幕引きをする意味で解約しようと心に決めた。
(この結婚には最初から無理があったんだ)
ただの姉妹ならば然程問題は大きくならずに済んだのかもしれない。けれど瓜二つの顔を持つ女性を2人同時に愛する事は到底無理な話だった。
「ただいま」
「お帰りなさい」
睡蓮は振り向く事なくガスレンジに向かっていた。油が弾ける音、唐辛子と豆板醤、醤油の香りがキッチンから漂って来た。今夜は麻婆豆腐だ。
「睡蓮、話があるんだ」
雅樹が肩に触れようとした瞬間、バネが跳ね返る様に振り解かれていた。
「な…….なに」
「ごめんなさい、ちょっと驚いちゃって」
「そうか」
「ごめんなさい」
睡蓮は雅樹に触れられる事に違和感を感じる様になっていた。掛け違えたボタンはもう元には戻せない。
「今日の病院どうだった?」
「血液検査で採血をしたの」
「そうか」
「うん」
「今日も田上先生なのか」
「うん……..主治医だから」
「そうか」
「うん」
会話はぎこちなく互いに言葉を選んでいた。
「睡蓮」
雅樹はフロアカーペットに膝を付くと深々と頭を下げた。その姿に睡蓮は驚きガスレンジの火を消した。
「雅樹さん……なにをしているの」
「申し訳ない」
「やめて」
「睡蓮、申し訳ない」
「なに………なにを謝っているの?なにに謝っているの……..やめて」
「申し訳ない」
「やめてよ」
「本当に申し訳なかった」
睡蓮はその肩を掴んで揺さぶったが雅樹は床から頭を上げる事は無かった。
「申し訳なかった」
「やめて……….やめてよ」
睡蓮の頬には涙が流れていた。その夜の麻婆豆腐は器に盛られる事は無く、雅樹は翌日のスーツやワイシャツ、着替えを持つと「今夜は隣のホテルに泊まるから」通り一本を隔てたシティホテルの名前を告げると部屋を後にした。
数分後、睡蓮からLINEメッセージが届いた。
<明後日から一泊旅行に行きます>
雅樹は項垂れ溜息を吐いた。
(全部終わらせよう)
雅樹は携帯電話をタップすると木蓮にショートメールを送信した。
<明後日の夜部屋に来てくれ>
暗闇でタクシーのハザードランプが点滅する。
「ありがとう」
12階建のマンションを仰ぎ見る木蓮のショルダーバッグには810号室の鍵が入っていた。正面玄関エントランスで「8、1、0」のボタンを押すと雅樹の声がしてガラス扉が左右に開いた。
(後悔はない)
エレベーターホールに立つ木蓮の脚は震えていた。
街灯の灯りの下でタクシーのハザードランプが点滅する。
「ありがとうございました」
山茶花の垣根を折れると5階建のマンションが小高い丘の上に建っていた。睡蓮の手には一泊分の旅行鞄、505号室のカーテンは開き逆光の中で伊月が睡蓮を待っていた。「5、0、5」のボタンを押すとガラスの扉が左右に開いた。
(後悔はしない)
エレベーターホールに立つ睡蓮はその箱の中に足を踏み入れた。
810号室、見上げたネームプレートにはWADAの4文字、最初に来た時には気付かなかったが木製のプレートにはヨットの模様が彫られていた。
(………セーリングが趣味だとか言っていたわね)
重い音が解錠を知らせ木蓮の心臓が跳ね上がった。
「…….よう、久しぶり」
「……..よう、久しぶり」
雅樹の首元に残る柑橘系の爽やかな香りが木蓮を包み込み胸が締め付けられた。あの情熱的な夜を思い出す悲しさ。
「入らないのか」
「これ……….返しに来ただけだから」
「そうか」
木蓮はショルダーバッグから810号室の鍵を取り出すと差し出された雅樹の手のひらに置いた。心許ない金属音が耳に残った。
「じゃあ」
「じゃあ」
木蓮は雅樹を振り返る事もなく背を向けた。愛おしい女性の後ろ姿を見送った雅樹は音もなく玄関扉を閉めた。力が抜けその場に座り込むとハタハタと涙が溢れて落ちた。カツカツカツと遠ざかるパンプスの足音。
(……….木蓮)
耳を澄ませばエレベーターの扉が閉まるベルまで聞こえるような絶望感に襲われた。
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