テラーノベル
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星降る橋の下は、雨の匂いが早かった。
夕方の風が川面を撫でるたび、橋脚の影が長く揺れる。サベリオは地下避難壕の入口に貼られた白い紙を、黙って見上げていた。
――撤去準備開始のお知らせ。
紙の端は、湿った風でぴらぴらと鳴っている。字面は固いのに、その音だけが妙に頼りなかった。
サベリオは工具袋の口を閉じた。ここで誰かを待っていたわけではない。ただ、仕事帰りに足が向いただけだ。錆びた手すりの具合も、半分割れた避難灯も、床に染みついた湿気の重さも、体が勝手に覚えている。
空が一段暗くなった直後、通り雨が落ちてきた。
ばたばたと足音が近づく。
「うわっ、降り方おかしいって!」
勢いよく飛び込んできたのは、肩まで濡れた女だった。モルリは髪を振って、床へしずくをまき散らした。
「助かったぁ……って、あれ。サベリオ?」
「……モルリ」
「何その顔。幽霊見たみたい」
「見てない。雨見てた」
「嘘。今の間、完全に私を見てた」
彼女は勝手に笑い、入口の紙へ目をやった。その瞬間、笑顔がぴたりと止まる。
「ほんとに貼られたんだ」
サベリオは返事をしなかった。
モルリは紙を睨みつけたあと、くるりと向き直った。濡れた前髪が頬に張りついているのに、声だけはやたら明るい。
「誘ってるんですけど」
「何を」
「決まってるでしょ。もう一回、ここで芝居」
サベリオは思わず目を細めた。雨脚が強くなり、シェルターの古い屋根が細かく鳴る。
「無理だ」
「早い。まだ一秒も考えてない」
「考えなくても分かる」
「私は考えたよ。三日考えた。商店街で断られて、駅前で笑われて、それでも三日考えた」
モルリは一歩近づき、紙を指先で弾いた。
「消される前に、ここで何か残したいの。あの時みたいに」
あの時、という言葉だけが重く落ちる。
サベリオの喉がわずかに動いた。数年前の夜。落ちる音。悲鳴。誰かの泣き声。思い出さないようにしても、雨音はよく似た場所を叩く。
「俺はやらない」
「じゃあ裏でいい」
「それでもやらない」
「じゃあ見てるだけでも――」
言いかけたモルリが、入口へ顔を向けた。
雨の向こうに、もう一つ影があった。
細い腕に大きな資料箱を抱えた女が、濡れたまま立っている。息を整えるように一度目を閉じ、それから静かに中へ入ってきた。
サベリオの指先が、工具袋の紐を強く握る。
「……デシア」
彼女は少しだけ驚いた顔をして、それでも逃げなかった。
濡れた箱を抱え直し、かすれた声で言う。
「ここ、まだ残ってたのね」
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