テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
翌朝、正式な通知が届いた。
“調査終了まで自宅待機を命ずる”。
短い文面だった。たったそれだけの字で、人の時間は簡単に止められるのだと知る。
机の引き出しを片づける間、誰も何も言わなかった。
ペトロニオだけが、いつもの明るさを消したまま飴を一つ置いていった。包み紙には、雑な字で“返ってこい”と書いてある。
エマヌエラはすれ違いざま、小さく言った。
「書いておきなさい。今日の空気まで」
クリストルンはうなずいたが、もうノートを開く気力も少なかった。
会社を出ると、空は低く曇っていた。
春なのに冷たい風が吹いて、紙の通知が鞄の中でやけに硬く当たる。
駅とは逆の方向へ、気づけば歩いていた。
夕暮れの坂道へ続く道だ。
息が苦しい。頭の中では、会議室の声、廊下のささやき、父の怒鳴り声、なくなったノートの空白が何度もぶつかっていた。
どうして、こんなふうになるんだろう。
取り戻したいだけだった。
父の仕事も、自分の案も、ちゃんとそこにあったと証明したいだけだった。
坂の途中で、とうとう足が止まった。
立っていられない。
クリストルンは手すりにすがるようにしてしゃがみ込み、そのまま声を殺して泣いた。人通りは少ない。だから余計に、泣き声の行き場がなかった。
「……何で」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
そのとき、雨が落ちてきた。
ぽつり、ぽつりと肩に当たり、やがて細い線になる。
けれど、傘を差す気になれなかった。
どれくらいそうしていたのか分からない。足音が近づいてきて、クリストルンは顔を上げる。
モンジェだった。
上着も髪も雨に濡れている。手ぶらだった。傘も持っていない。どうやら坂を急いで駆け上がってきたらしく、肩で息をしている。
「……お父さん」
モンジェは数歩手前で立ち止まった。
何か言おうとして、言葉を飲み込む。大きな手が宙で迷い、やがてゆっくり下りる。
昨夜の傷も、今日の傷も、どちらもまだ生々しいままだった。
クリストルンは涙で濡れた顔のまま立ち上がろうとしたが、うまく力が入らない。
モンジェがとっさに腕を支える。
温かいはずの手が、ひどく冷えていた。
「帰るぞ」
やっと出た言葉は、それだけだった。
クリストルンはうなずくしかない。
謝りたいことも、聞きたいことも、山ほどあるのに、今はどちらの口からも出てこない。
雨の中、二人は並んで坂を上る。
言葉の代わりに、足音だけが続く。
夕暮れはとっくに過ぎていた。
それでも家へ向かう道だけは、まだ消えていなかった。