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空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
月椿堂の引き戸は、その夜、いつもより軽かった。
客が少ないと、木の戸はこんな音を立てるのかと、クリストルンは初めて知った。夕方になっても店先に足を止める人はまばらで、棚の上の置き時計ばかりがやけに元気に時を刻んでいる。
「今日は静かだなあ!」
モンジェが、必要以上に大きな声を出した。帳場に座る背中が妙に広く見える。いつもならその声で店の空気まで明るくなるのに、今夜は天井にぶつかって落ちてきただけだった。
「静かっていうより、みんな遠慮してるんだよ」
クリストルンが質札の束をそろえながら言う。
昼間、近所の人が店の前を通り過ぎるとき、ちらりと店内を見た。白椿トイズの噂が町にまで届いたのかもしれない。元社員の父と、自宅待機になった娘。面白半分に覗かれるには、今の二人は少し生身すぎた。
「遠慮なら、そのうち腹が減って戻ってくる」
「お客さんを野良猫みたいに言わないで」
「じゃあ鳩だ」
「もっとだめ」
やり取りだけ聞けば、いつもの月椿堂だった。
けれど、モンジェの笑い声のあとに残る薄い沈黙を、クリストルンは聞き逃せない。
閉店前、常連の老婦人が一人だけ入ってきた。古い帯留めを質草にしたいと言う。クリストルンが受け取ると、老婦人は少し迷ってから口を開いた。
「大丈夫かい」
それだけだった。
事情を聞くでも、噂を確かめるでもない、まっすぐな一言だった。
クリストルンは笑おうとしたが、うまくいかない。
「……はい。たぶん」
老婦人はうなずき、帰り際にモンジェへ言った。
「大きい声を出す日は、しんどい日だよ。あんた、昔からそうだろ」
モンジェは一瞬だけ返事に詰まり、それからいつもの顔で肩をすくめた。
「俺はいつでも絶好調だ」
「そういうことにしといてあげるよ」
戸が閉まり、鈴が小さく鳴る。
その音が消えたあと、店の中はまたしんとした。
クリストルンは帳場の向かいに座り、そっと父を見る。大きな手が帳簿の端を押さえている。その指先に、いつもより力が入っていた。
「お父さん」
「ん?」
「空元気、すごく下手」
モンジェは目を上げた。豪快な父の顔ではなく、言い返す言葉を探している男の顔だった。
「下手で悪かったな」
「悪くないよ」
クリストルンは小さく笑う。
「でも、私まで大丈夫なふりしたら、この店、静かすぎる」
モンジェはしばらく黙っていたが、やがて鼻を鳴らした。
「……じゃあ、今夜は湯豆腐にするか」
「話の着地が見えない」
「静かな夜は湯豆腐だろ」
わけの分からない理屈に、クリストルンはやっと少しだけ笑えた。
けれど、笑った次の瞬間、店の電話が鳴る。白椿トイズからではないかと体が強張った。
モンジェが先に受話器を取る。
短い受け答えのあと、受話器を置いた父は、何でもないふうを装って言った。
「保険の営業だ」
嘘だとすぐ分かった。
だが、その嘘を今は追い詰めたくなかった。
月椿堂の静かな夜は、誰かの気遣いと、誰かの見栄と、言いそびれた本音で、少しずつ深くなっていった。
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