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第2話:わらっていた日
三日目の午後、また祖父の家を訪れた。
昨日と同じ時間。西陽の角度が物置の床を染めていく。
畳の上に正座して、例の本を開いた。
前回は「わ」「た」と続いていたページに、新たな文字が並んでいた。
「わたしは、」
丁寧でまっすぐな筆跡。少し斜めに傾いた“し”が、どこか祖父の字を思わせた。
次のページに目を移す。
「わらっていた」
息をのんだ。文字が語る言葉の奥に、映像のような記憶が浮かぶ。
──砂利の庭。鉄棒。麦わら帽子の自分。
「じいちゃん、みててー!」
私は何度もジャンプして、鉄棒をひねるように回っていた。
七歳の夏。私は髪を短くしていて、顔中にそばかすが散っていた。
Tシャツの袖がくるくると巻き上がるほど走り回り、笑い声は庭中に響いた。
物置の中に、誰かがそっと立っていたような感覚がする。
風がないのに、ページの端が少しめくれる。
「わたしは、わらっていた」
本は、まるで日記のようで、でも明らかに誰かの“視点”だった。
私は思わず、自分の名前を口にしてみた。
「ユイ……わたしのこと、なの?」
返事はない。けれど、次のページに目をやると、文字はこう続いていた。
「まいにち、わらっていた」
「あの人が、いないときだけ」
急に、背筋がぞくりとした。
あの人——誰だろう。
次のページには何も書かれていない。
でも、インクのにおいだけが、かすかに漂っていた。
*
家に帰って、母に聞いてみた。
「ねえ、昔わたし、よく笑ってた?」
母は少し驚いた顔で言った。
「そりゃそうよ。じいちゃんと一緒のときは、ずーっとね」
「おばあちゃんとは?」
「……あの人の前では、ちょっとおとなしかったかもね」
それきり母はそれ以上話そうとしなかった。
*
夜、夢を見た。
私は鉄棒の前で何度も回っていて、その先に祖父が立っていた。
作業着のまま、膝をついて、カメラを構えていた。
祖父は中肉で、白いシャツの上に青い作業ベストを重ねていた。
目元には深いシワがあったけれど、笑うとそれがやさしくなる。
「いいぞ、もう一回回ってみな」
祖父の声がそう聞こえた気がして、目が覚めた。
隣には誰もいないのに、どこか安心していた。
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