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翌日の昼下がり、雨戸を半分だけ閉めた店で、モンジェは珍しく自分から声をかけてきた。
「ちょっと来い」
居間の奥。母の嫁入り道具がしまわれていた桐箱が、座卓の上に置かれている。何度も見た箱なのに、その日は妙に古く見えた。
モンジェは腰を下ろし、箱の金具をしばらく撫でてから、ぽつりと口を開く。
「二十年前な。あの騒ぎのあと、補償金やら何やらで、まとまった金が要った」
クリストルンは黙って座る。
父が自分から昔の話をするのは、それだけで異例だった。
「俺の貯金じゃ足りなかった。腕も仕事も、あっという間に失った。で、残ったのが……これだった」
モンジェは箱のふたを開けた。中には古びた帯、簪、小さな鏡、布袋。母が嫁いでくるときに持ってきた品々だ。
「質に入れた」
言葉は短いのに、重かった。
クリストルンの喉がきゅっと縮む。
「……お母さんのものを?」
「そうだ」
モンジェは目を伏せたまま続けた。
「売ったわけじゃない。絶対に取り戻すつもりだった。だが、その“いつか”がなかなか来なかった」
箱の中の布袋を、父の大きな手がそっと持ち上げる。
「おまえがまだ小さくて、熱を出して、薬代もかかって、店も始めたばっかりで、毎日がぎりぎりだった。取り返しても、開ける勇気が出なかった」
豪快な父の声が、その話の間だけ妙に静かだ。
「おまえが中を見たら、母さんのことを思い出して泣くだろうと思った」
「そんなの、今だって泣くよ」
思わず言い返した声が震えた。
モンジェがようやく顔を上げる。
「知ってる。だから、もっと大きくなってからにしようと思った。そしたら今度は、俺のほうが見られなくなった」
クリストルンは箱を引き寄せた。母がいた証が、布の匂いの奥にまだ残っている気がする。
「……取り戻してくれてたんだ」
「だいぶ後にな」
「なんで言ってくれなかったの」
「言ったら、おまえが気を遣う」
「もう十分、気を遣ってる」
言いながら、涙が落ちた。箱の縁に、ぽたりと染みを作る。
モンジェは慌てて手を伸ばしかけ、途中で止めた。慰め方を忘れたみたいに、空中で指が迷う。
「……すまん」
その謝り方が、あまりにも不器用で、クリストルンはかえって泣いてしまった。
「お父さんは、何を売って、何を残したの」
質問すると、モンジェは少し考えた。
「腕の仕事と、見栄と、寝る時間は売ったな」
「軽口で流さないで」
「流してない。……残したのは、おまえだ」
その一言で、胸の中の何かが崩れた。
クリストルンは箱を抱え込む。布越しに、母のぬくもりと、父の長い沈黙と、その両方が伝わってくる気がした。
「私、お母さんの代わりにはなれないよ」
「そんなこと頼んでない」
「でも、お父さんが一人で全部抱えるのも、もう嫌」
モンジェは目を閉じる。
いつもの大きな背中が、少しだけ小さく見えた。
「……分かった」
分かったと言ったくせに、たぶん全部は分かっていない。それでも、今日ここで箱が開いたこと自体が、二人にとっては大きかった。
クリストルンは涙を拭き、箱の中から柔らかなリボンを取り出す。
胸に当てると、父がうっすら笑った。
「母さん、それ、よく似合ってた」
「じゃあ私にも似合うね」
「そこは間違いない」
少しだけ、いつもの声が戻る。
売ったものは戻らないこともある。
けれど、残したものは、開ける勇気さえあれば、ちゃんと手の中に戻ってくるのかもしれなかった。
空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙