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#海辺の町
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その晩、離れの机には拡大鏡と卓上灯が持ち込まれた。絋規が写真館から飛んできたのだ。晩ごはんも食べていない顔で、「こういうのは熱いうち」と訳の分からないことを言いながら椅子へ座る。
「写真に熱ってあるのか」
蓮都が聞く。
「ある。気持ちの話」
「じゃあ分からん」
「だろうね」
皆で笑ったあと、灯りを落として写真の裏へ光を当てる。薄い鉛筆跡が、じわりと浮かび上がった。
「春、」
芽生が読む。
「その先は」
「……水が、ひいた日」
啓介が続けた。
短い言葉だった。けれど、その一文には、町の誰かがわざわざ残した意味がある気がした。ただの記念写真なら、日付でも人数でもよかったはずだ。なのに残ったのは、“水がひいた日”。
義海が小声になる。
「やっぱり、何かあった日の写真なんだな」
「うん」
莉々夏も珍しく静かだった。
絋規は裏書きをメモに写しながら言う。
「店の古いネガ、明日ひっくり返してみる。これの前後が残ってたら、写ってる人も分かるかもしれない」
「助かる」
啓介が言う。
「そういう時だけ素直」
「今は素直になる時だから」
離れの空気が少しだけやわらいだ、その時だった。
美恵が机の端を見て首をかしげる。
「鍵、どこ?」
皆が動きを止める。
「何の鍵」
芽生が聞く。
「離れの玄関。さっきまでここに置いたの」
机の上には帳面、写真、メモ、湯のみ。けれど、いつも鈍い音を立てる真鍮の鍵だけが見当たらない。
啓介が立ち上がり、机の下、棚の上、窓辺を見て回る。莉々夏は自分の鞄をひっくり返し、義海はなぜか畳の目までのぞき込んだ。享佑は「動く前に最後に見た場所を言え」と正しいことを言ったが、誰も落ち着けない。
「さっき、写真を広げる前にはあったの」
美恵が言う。
「私、たしかに見た」
「じゃあ誰かがどこかへ」
蓮都が言いかける。
その言葉を、鼓夏がやわらかく遮った。
「決めつけないで。今の言い方、昨日までと同じになる」
場が静まる。
啓介は深く息を吸い、もう一度、自分の上着のポケットに手を入れた。そこには何もない。はずだった。
指先に、冷たい金属が触れた。
「……え」
思わず声が漏れる。
皆の目が集まる。啓介はゆっくりと手を抜いた。掌の上で、離れの鍵が鈍く光っていた。
「なんで」
自分で言った声が、一番頼りなかった。
さっきまで持った覚えがない。しまった記憶もない。けれど、鍵はたしかに、啓介の上着から出てきた。
離れの中に、説明のつかない静けさが落ちる。