テラーノベル
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夕方の空が、窓の外で鈍く曇っている。雲の切れ目から差す光が、教室の床に中途半端な影を落としていた。
ノックは二回。間が少し空く。
「どうぞ」
蓮司は椅子に深く座ったまま、視線だけを上げた。
入ってきた相談者は、制服のまま鞄を肩にかけている。立ち姿はわりと堂々としているのに、目線が落ち着かない。
「……来てもよかった?」
「来た時点でアウトって言われたら困るだろ。座れ」
椅子に腰を下ろしても、相手はすぐには話さない。
蓮司は急かさず、ペンを指先で転がしている。
「なあ」
相談者が先に口を開いた。
「俺さ、悩んでるのかどうか、分かんなくなってきて」
「急に哲学だな」
「違う。そういうのじゃなくて」
少し笑いかけて、すぐに表情が消える。
「周り見てるとさ、もっと大変そうなやつ、いくらでもいるじゃん。
家庭とか、病気とか、いじめとか」
「まあ、いるな」
「で、自分はって言うと、別に何かが壊滅的に悪いわけでもなくて」
相談者は天井を見上げた。
「なのに、しんどい。
でもその“しんどい”が、本物なのか分からない」
蓮司はペンを止める。
「分からない?」
「この程度でつらいって言っていいのか、っていうか。
悩んでるフリしてるだけなんじゃないかって」
「自分を疑ってるわけだ」
「そう。
悩んでる自分すら信用できない」
少し自嘲気味に笑う。
「正直さ、
“悩めてる自分”に酔ってんじゃねぇの?って声が、頭の中にある」
教室が静まり返る。
外で誰かの笑い声が聞こえ、すぐに遠ざかっていった。
蓮司は椅子の背にもたれ、天井を見た。
「その声、便利だろ」
「……え?」
「自分を殴るのに、ちょうどいい」
相談者は一瞬、言葉に詰まる。
「便利って」
「だってさ。
本気でつらいって認めちまったら、どうする?」
「……」
「理由が必要になる。
説明もいるかもしれない。
助けを求めるって選択肢も出てくる」
ペンを机に置き、蓮司は続けた。
「でも“大したことない”って言っとけば、
何もしなくていい。
動かなくていい。
傷つかなくて済む」
相談者は黙り込む。
指先が、膝の上で絡まる。
「それって……逃げ?」
「逃げでもあるし、防御でもある」
淡々とした声だった。
「つらさを疑うってのは、
感じること自体にブレーキかけてる状態だ」
「じゃあさ」
相談者が顔を上げる。
「本当に苦しい人に、失礼じゃないのかな」
「誰に対して?」
「……世の中の、もっと大変な人」
蓮司は少し考えてから言った。
「そいつらが、お前の苦しさの審査員だと思ってるなら、
話は別だけどな」
「違うけど」
「だったら比べる意味ない」
相談者は苦笑した。
「簡単に言うな」
「簡単な話しかしてない」
蓮司は肩をすくめる。
「苦しいかどうかって、
順位つけるもんじゃねぇだろ。
一位以外は黙れ、みたいな」
「……でも」
「でも、だな」
言葉を切り、少しだけ声を落とす。
「本当に厄介なのは、
“悩んでる自分を疑う癖”が染みつくことだ」
相談者は息を呑んだ。
「それやってると、
楽しい時も疑い始める」
「楽しいのに?」
「これ、本当に楽しいのか?
無理して笑ってないか?ってな」
相談者は目を伏せた。
「……ある」
「だろ」
沈黙が落ちる。
カーテンが風に揺れ、光が一瞬だけ揺らいだ。
「なあ」
蓮司は軽く声を投げる。
「悩みってさ、
“正当性”が揃ったら発生するもんじゃない」
相談者は黙って聞いている。
「気づいた時点で、もう発生してる。
疑ってる時点で、十分やっかいだ」
「じゃあ……」
「“この程度”って言葉、封印しとけ」
即答だった。
「それ言い始めると、
自分の感覚、全部信用できなくなる」
相談者は、ゆっくりと息を吐いた。
「悩んでる自分を、
もうちょっとそのままにしていい?」
「別に誰の許可もいらねぇ」
蓮司は立ち上がり、窓を少しだけ開けた。
外の空気が、教室に流れ込む。
「疑いながらでもいいから、
感じてるもんを消すな」
それ以上は言わなかった。
相談者も、何も聞かなかった。
ただ、来た時より少しだけ、
肩の力を抜いて立ち上がった。
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