テラーノベル
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舞台を作り直す時間は、ほとんどなかった。
むしろ、作り込みすぎない方がよかったのかもしれない。
ヴィタノフは無言で懐中電灯の向きを変え、ろうそくの位置を一つずつ決めていく。明るく照らすのではない。暗さをどこまで味方にできるかを測るような手つきだった。
橋の下へ並べられた灯りは、ほんの少し。
それでも濡れた床へ揺れる橙の色が落ちると、そこだけが静かに息をし始める。
「少なすぎない?」
モルリが囁く。
ヴィタノフは首を横に振った。
「多いと、嘘になる」
その一言で、誰ももう口を挟まなかった。
ジャスパートは録音機材の最小限だけを生かし、残りは捨てた。橋から落ちる雨の音、遠くを流れる川、濡れた靴底の擦れる気配。今この場で生まれている音を、消さないようにだけ整える。
ホレが客席の最前列へ駆ける。
「見えづらい方、前へどうぞ。傘は後ろで閉じてください」
その声が妙に柔らかく、観客たちも自然と従った。
前の上演を見に来ていた客は、そのまま残っている人が多かった。
帰る選択もできたはずなのに、誰も完全には離れなかった。止まった華やかな舞台のあとに、何が出てくるのか。見届けたい気持ちが、雨より重く場へ留まっている。
サベリオは袖で手を握って開いた。
手のひらに残るのは、昨夜の金属の匂いと、今日ここまで運んできた木材のざらつき。裏方だった頃と同じ手だ。違うのは、その手で今から自分の声も運ぶことだった。
デシアが隣に立つ。
白い息の代わりに、緊張だけが二人の間で静かに揺れていた。
「震えてる?」
サベリオが聞く。
「少し」
デシアが答える。
「あなたは」
「だいぶ」
それを聞いたデシアが、くすりと笑う。
「なら、同じくらいでちょうどいい」
その笑いで、サベリオの肩から余計な力が少し抜けた。
ニカットが開始の合図を送る。
大げさな紹介はない。こんな夜に飾った言葉を重ねても、きっと届かないからだ。
ただ短く、
「シェルター組、上演します」
それだけだった。
客席が静まる。
雨音が、逆に舞台の外枠みたいに場を囲う。
ヴィタノフが最後の灯りを落とし、デシアへ目だけで送る。
デシアは一歩前へ出た。
手に台本はない。胸の奥へ入れたまま、視線だけを客席の向こうへ伸ばす。
橋の上を打つ雨。
しずくが手すりから落ちる間。
誰かが息を飲む気配。
その全部を受け取ってから、彼女は口を開いた。
「雨の夜は、町が少しだけ本音に近づく」
第一声は大きくなかった。
けれど、ろうそくの火が揺れるのと同じ自然さで、客席の奥まで届いた。
モルリが思わず胸元を押さえる。
ヌバーも、珍しく何も言わない。
パルテナは唇を噛みしめ、アルヴェは目を伏せた。
デシアは続ける。
「春の音は、たぶん、誰かが笑ったあとに少し遅れて聞こえる」
その声で、橋の下が舞台へ変わった。
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