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『春の音』は、派手な始まり方をしなかった。
誰かが転ぶわけでも、強い音楽が鳴るわけでもない。
ただ、橋の下へ雨宿りに集まった人々が、少しずつ椅子を寄せ、濡れた肩を払って、目の前の知らない相手と同じ夜をやり過ごそうとする。たったそれだけの場面から始まる。
ミゲロが演じる男は、黙って椅子のがたつきを直す。
ホレが演じる女は、誰にも押しつけがましくなく、人数分より少し多く布を置く。
ヌバーの役は緊張すると余計なことを喋る男で、本人と似すぎていて最初の笑いが起きた。
その笑いが、舞台の空気を一段やわらかくする。
ジャスパートの音はほとんど見えない。
だが、見えないからこそ効いた。橋から落ちるしずくの高さ、地下避難壕へ残る反響、少し遅れて返る笑い声。町の中へ昔からあった音だけで、場面の奥行きが生まれていく。
サベリオは中程で舞台へ入った。
役の上では、いつも誰かの荷物を持ち、壊れた時計をつい触ってしまう男だ。目立たない。人の話をよく聞いて、自分のことは後回しにしてしまう。
まるでそのままだ、とモルリは袖で思いながら、今だけは茶化さなかった。
サベリオの一言目は、驚くほど静かだった。
「濡れてる人、こっちの方が風、当たりにくいです」
誰にでも言えそうな台詞なのに、その場でしか出ない温度があった。
客席の前の方で、年配の女性が小さく頷くのが見えた。
デシアは物語の外にいる語り手として、時々、場へ言葉を落とす。
橋の上を人が渡る音。
春の手前で止まっている気持ち。
言えなかったことが、しずくみたいに一つずつ落ちていく夜。
彼女の言葉が、俳優たちの動きへそっと灯りを足していく。
中盤、笑いの大きな波が来た。
ヌバーの役が場を和ませようとして逆に全員の秘密へ踏み込み、ホレの役に冷たく切られ、ミゲロの役がさりげなく椅子の位置だけ直して事態を収める。その流れの中で、観客は誰かを笑うのではなく、一緒に夜を過ごすみたいに笑っていた。
サベリオはその気配を感じながら、次の台詞へ向かう。
ここから先は、彼の役が初めて自分の傷へ触れる場面だ。
本来の台本なら、問いかけに対して短く曖昧に返すだけだった。
だが今夜、目の前にいる客席と、橋の下の湿った空気と、ここまで自分を押してきた仲間の顔を見た時、サベリオの中で何かが一つ動いた。
デシアが投げた問いに対し、彼は台本どおりの間を置く。
そのあとで、書かれていない一言を口にした。
「ここ、帰ってきてもいい場所なんだって、誰かが言わないと、消える気がした」
袖にいたデシアが、はっと顔を上げる。
ヌバーもミゲロも、誰もその台詞を知らない。けれど、誰も止めなかった。
客席が静まり返る。
雨の音だけが、舞台の向こうで続いている。
デシアはほんの一瞬だけ目を閉じた。
それから、台本にはないその言葉を受け取るように、次の語りをそっと差し出した。
「だから人は、消える前に名前を呼ぶ」
その繋ぎ方を見た瞬間、パルテナの喉が震えた。
悔しいのに、見事だった。書き直しではない。その夜にしか生まれない呼吸だった。
アルヴェは暗がりの中で、静かに笑った。
負けると分かる瞬間ではない。勝ち方の違いを、ようやく心から認めた瞬間の顔だった。