テラーノベル
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朝、花はいつもより少し早く目を覚ました。
目覚まし時計が鳴るまで、まだ時間があった。
布団の中で目を開けたまま、天井を見つめる。
学校へ行きたくない。
そう思うこと自体は、もう珍しくなくなっていた。
けれど、休む理由がない。
熱はない。体も動く。昨日だって学校へ行けた。今日だけ行かない理由を、祖父にどう説明すればいいのか分からなかった。
花は布団から出た。
制服に着替え、髪を整え、鞄の中身を確かめる。
いつもと同じ朝だった。
台所へ行くと、祖父が弁当箱におかずを詰めていた。
「おはよう」
「……おはよう」
「今日は卵焼き、焦げへんかったで」
祖父は弁当箱を少し持ち上げた。
花は中を覗いた。
黄色い卵焼きが、きれいに並んでいた。
「ほんまや」
「ちょっと火ぃ弱めたんや」
「……うん」
「食べられる分だけ入れといたからな」
祖父は蓋を閉め、花に渡した。
花はそれを受け取った。
「ありがとう」
「気ぃつけて行ってきぃや」
「……行ってきます」
玄関を出るとき、花は弁当箱を鞄の中で確かめた。
食べられなかったことを祖父は責めなかった。
少なくしてくれた。
それだけで、少しだけ胸が苦しくなった。
自分が学校で何をされているのか知らないから、祖父はこんなふうに優しくできるのかもしれない。
もし知ってしまったら、きっと今までと同じではいられない。
花は鞄の肩紐を握り、歩き出した。
教室では、朝から文化祭の話が続いていた。
「お化け屋敷、どんな感じにする?」
「入口、もっと怖くしたいわ」
「花、ちょっとこっち来て」
突然呼ばれ、花は顔を上げた。
声をかけてきたのは、文化祭の準備を中心になって進めている女子だった。
「これ、どっちがええと思う?」
机の上には、黒い紙と赤い紙が置かれていた。
花は戸惑いながら見比べた。
「……黒いほう?」
「なんで?」
「え……」
「理由あるん?」
花は言葉に詰まった。
「そのほうが、お化け屋敷っぽいと思って……」
「ふうん」
女子は黒い紙を持ち上げ、隣の友達に見せた。
「花は黒がええんやって」
「ええんちゃう? 別に」
「じゃあ黒でええか」
それだけで話は終わった。
花は自分の席へ戻ろうとした。
「花、ありがとな」
背中に声がかかった。
花は振り返った。
女子はもう別の友達と話していた。
お礼を言われた。
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ただ、それだけのことだった。
それなのに、花はどう反応すればよかったのか分からなかった。
嬉しそうにしたら、何か言われるだろうか。
何も言わなければ、感じが悪いと思われるだろうか。
結局、花は小さく頷いて席に戻った。
自分の意見が使われたことよりも、次に何か言われるのではないかという不安のほうが大きかった。
誰かが普通に接してくれるたび、花はその意味を考えてしまう。
本当に普通に接してくれているのか。
何か別の目的があるのか。
あとから笑われるのではないか。
何も起きていない時間さえ、安心することができなかった。
昼休み、花はひとりで弁当を食べていた。
祖父が作ってくれた卵焼きは、昨日よりきれいだった。
花はひとつ口に入れた。
甘くて、少しだけ柔らかかった。
今度は、ちゃんと食べられそうだった。
そのとき、前の席に座っていた女子が振り返った。
「花、今日もひとりなん?」
花は箸を止めた。
「……うん」
「誰かと食べへんの?」
「……別に」
「うちらと食べる?」
女子の隣にいた子が、花を見て笑った。
花は二人の顔を交互に見た。
誘われた。
そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。
どうして急に。
昨日まで、こんなふうに声をかけてくることはなかった。
何か変わったのだろうか。
それとも、また何かされるのだろうか。
「……ええの?」
「ええよ。別に人数増えても変わらんし」
花は弁当箱を持ち上げかけた。
けれど、女子の隣にいた子が口を開いた。
「でも、花ってあんまり喋らへんやん。気まずくならへん?」
「まあ、それはそうやな」
二人が笑った。
花は弁当箱を机に戻した。
「……ごめん」
「なんで謝るん?」
「いや……」
「別に誘っただけやん。嫌ならええけど」
「……うん。ごめん」
女子たちは前を向いた。
会話はそれで終わった。
花は弁当箱を見下ろした。
誘われたことが嬉しかったのかどうか、もう分からなかった。
最初の言葉だけなら、嬉しかったのかもしれない。
でも、そのあとに続いた言葉が、何度も頭の中で繰り返された。
あんまり喋らへん。
気まずくなる。
自分と一緒にいたら、楽しくない。
花は卵焼きをもうひとつ口に入れた。
味がしなかった。
午後の授業が終わったあと、花は担任に呼び止められた。
「花、ちょっとええか」
教室に残っていた生徒たちが、ちらりとこちらを見た。
花は先生の机の前に立った。
「最近、元気ないように見えるんやけど、何かあったんか?」
花はすぐに答えられなかった。
先生は心配そうな顔をしていた。
怒っているわけではない。
からかっているわけでもない。
それは分かった。
「……何もないです」
「ほんまに?」
「……はい」
「何か困ってることがあったら、先生に言うてええんやで」
花は俯いた。
言ってもいい。
先生はそう言った。
けれど、何をどこまで話せばいいのだろう。
教科書に書かれた言葉。
折られた鉛筆。
笑い声。
ひとりで食べる弁当。
話しかけられるたびに、何を言えば間違いにならないのか考えてしまうこと。
誰かが笑うだけで、自分のことを笑っているのではないかと思ってしまうこと。
学校にいる間、ずっと誰かの顔色を窺っていること。
ひとつ話したら、全部説明しなければならない気がした。
それに、先生が知ったらどうなるのだろう。
相手を呼び出すのだろうか。
クラスのみんなに何か言うのだろうか。
そうなったら、今よりもっとひどくなるかもしれない。
「……ほんまに、大丈夫です」
花はそう答えた。
先生は少し困ったように笑った。
「そっか。無理はせんでええからな」
「……はい」
「しんどいときは、休んでもええんやで」
その言葉を聞いた瞬間、花は胸の奥が苦しくなった。
休んでもいい。
そう言ってもらえたことが、嫌だったわけではない。
むしろ、少しだけ安心した。
けれど、安心したことを認めたら、本当に自分がしんどいのだと認めることになる。
自分は、そこまで大変な目に遭っているのだろうか。
学校へ来られている。
授業も受けている。
先生に話しかけられたら、ちゃんと返事もできる。
泣き叫んでいるわけでもない。
誰かに助けを求めているわけでもない。
だったら、まだ大丈夫なのではないか。
「ありがとうございます」
花は頭を下げた。
先生は「気ぃつけて帰りや」と言った。
花は教室を出た。
廊下を歩きながら、先生の言葉を何度も思い返した。
無理はせんでええ。
休んでもええ。
優しい言葉だった。
でも、その言葉は、花の中にあるものを何ひとつ消してはくれなかった。
明日になれば、また学校がある。
休んだ次の日も、教室はそこにある。
自分が休んでいる間に、何を言われるのだろう。
戻ってきたら、どんな顔をされるのだろう。
先生に相談したことが知られたら、どうなるのだろう。
考えれば考えるほど、休むことさえ怖くなった。
帰り道、花は公園の前を通った。
小さな子どもたちが遊具の周りを走り回っていた。母親らしい女性がベンチに座り、子どもに声をかけている。
「危ないから、そっちはあかんで」
「大丈夫やって!」
「大丈夫ちゃう。こっちおいで」
子どもは笑いながら母親のところへ走っていった。
花はその光景を少しだけ見つめた。
誰かが危ないとき、止めてくれる人がいる。
転びそうになったら、手を伸ばしてくれる人がいる。
悪いことをしたら叱って、危ないことをしたら止めてくれる。
そんな当たり前のことが、ひどく遠いものに感じられた。
花は目をそらし、歩き出した。
自分が困っていることを、誰かに分かってほしいと思ったことはある。
でも、分かってもらったあとに何が起きるのかを考えると、何も言えなくなった。
助けてほしい。
でも、助けを求めたせいで、もっとひどい目に遭うのは嫌だった。
誰かに気づいてほしい。
でも、気づかれたくなかった。
自分でも、どうしたいのか分からなかった。
家に帰ると、祖父が庭先で洗濯物を取り込んでいた。
「おかえり」
「……ただいま」
「今日はどうやった?」
花は立ち止まった。
祖父がこちらを見ていた。
いつもと変わらない顔だった。
「……普通」
「そうか」
祖父は洗濯物を抱え直した。
「もうすぐ飯できるからな」
「うん」
花は家に入った。
自分の部屋に鞄を置き、制服のままベッドに腰を下ろす。
先生は、困ったことがあったら言っていいと言った。
祖父は、学校はどうだったかと聞いてくれた。
どちらも、花を心配してくれているのかもしれない。
それなのに、花は何も言えなかった。
優しくされると、申し訳なくなる。
心配されると、自分が悪いことをしているような気がする。
助けてもらうほどのことではないと思う。
でも、本当は、もう疲れていた。
誰かの声に怯えることにも、笑い声を聞くたびに身構えることにも、何もなかった顔で一日を終えることにも。
疲れていると認めてしまえば、今まで何とか続けてきたものが、全部崩れてしまいそうだった。
花は両手で顔を覆った。
誰かに優しくしてほしい。
そう思うことすら、怖かった。
優しくされたら、期待してしまう。
期待したら、裏切られたときに傷つく。
だから最初から、何も望まないほうがいい。
そうやって、自分の中にある気持ちをひとつずつ押し込めてきた。
けれど、押し込めたものが消えたわけではなかった。
ただ、誰にも見えないところに溜まっていくだけだった。
夕飯の時間になり、花は食卓へ向かった。
祖父が用意した料理を前にして、箸を持つ。
「今日、学校で何かあったんか?」
祖父が尋ねた。
花は顔を上げた。
先生と同じような言葉だった。
何かあったのか。
困っていることはないか。
話してもいいのだと、誰かが言ってくれる。
それでも、花の口から出てきたのは、いつもの言葉だった。
「……何もないよ」
祖父は花を見つめたあと、小さく頷いた。
「そうか」
それ以上、聞かなかった。
花はご飯を口に運んだ。
温かかった。
祖父は目の前にいる。
ここには、帰ってこられる場所がある。
それでも、明日が来ることが怖かった。
優しい言葉をかけてもらっても、明日も学校へ行かなければならないことは変わらない。
誰かが心配してくれても、教室で自分を笑う人たちがいなくなるわけではない。
優しさは、確かにそこにあった。
ただ、花には、それを受け取る余裕がもう残っていなかった。
そして花自身も、自分がどれほど限界に近づいているのか、まだ分かっていなかった。
コメント
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第4話、読み終えました……めちゃくちゃ胸が締め付けられた…… 祖父の「食べられる分だけ入れといた」ってとことか、先生の「休んでもええんやで」って言葉とか、確かにその優しさはあって。でも花の中でそれが「受け取る余裕がない」っていう状態で、優しさがむしろ苦しさを深めてる感じがして、すごくもどかしくて苦しかった。誘われて、でも続く言葉でやっぱりってなる昼休みのシーンも、なんかもう分かって泣きそうになった。 「誰かに気づいてほしいけど、気づかれたくない」っていう矛盾、すごくリアルで、言葉の一つ一つが刺さりました。この重さを丁寧に紡げるの、本当にすごいです……