金曜日の夕暮れは雨が降っていた。
(湊は、寝ているわね)
菜月は、怪我で横たわる湊を気遣い、ニューグランドホテルへは自分一人で行くことを決めた。椎の木の木漏れ日が障子に揺れる部屋で、湊の包帯と絆創膏に覆われた姿が胸を刺す。如月倫子がどんな人物であれ、公の場で大それたことをしでかすはずはない。そう自分に言い聞かせ、菜月は心を決めた。
変装とは程遠いが、女性らしいぽってりとした赤い唇を隠すため、色味の薄い化粧を施した。鏡に映る短く刈り上げた髪と控えめな顔立ちは、まるで新たな自分を試すようだった。湊の「天使の羽根」の言葉が一瞬よぎるが、彼女はそれを振り払い、バッグに最小限の荷物を詰めた。賢治の依頼、事故の背景、倫子の思惑が頭を巡る中、菜月は一人で立ち向かう覚悟を固めた。ホテルのロビーで何が待つのか、確信はない。それでも、湊をこれ以上巻き込みたくないという思いが、彼女の足を前へ進ませた。障子の光が背中を押すように、菜月は静かに部屋を出た。
「菜月さん、お出掛けですか?」
夕飯の支度をしていた多摩さんと廊下で鉢合わせし、菜月は飛び上がって驚いた。
「お友だちに会いに行くの」
「あらあらあら、珍しいですね」
菜月は、シルクの白いシャツに袖を通し、濃紺のパンツを履いていた。
「あらあらあら、菜月さんがズボンを履かれた姿は初めて見ました」
「変かしら?」
「いえ、髪型も短くて男の子みたいですが、多摩は好きですよ」
「ありがとう」
確かに、その姿は中性的な印象を醸し出し、普段の菜月からは程遠かった。
「そのお荷物は何ですか、随分重そうですねぇ」
「う、うん」
「お出掛けでしたら、冬馬を呼びましょうね」
「あ、いいの。タクシーを呼んでくれる?」
「はい、はい、はい」
多摩は廊下を小走りに茶の間へと向かった。
(確かに、重いわ)
菜月は肩に掛けた黒い革の鞄を覗き込んだ。そこには郷士が愛用している一眼レフカメラが入っていた。
(お父さん!壊したらごめんなさい!)
菜月を乗せたタクシーはニューグランドホテルの車寄せで停まった。
「ありがとうございました、2,900円になります」
タクシーの後部座席のドアが閉まり、菜月は緊張のあまり唾を飲み込んだ。
(ここで、賢治さんが!)
ニューグランドホテルの回転扉で一回転した菜月は、顔を赤らめて頸を掻いた。エントランスには、オープンカフェのフルーツパーラーが隣接していた。
(ここで待とう)
カフェには背の高い観葉植物が並び、隠れて写真を撮るにはうってつけだった。
「おひとりさまでしょうか」
「はい」
「お好きなお席にどうぞ」
「はい」
菜月は、エントランスやホール、フロント、エレベーターホールが見渡せる席に姿を潜めた。
(あっ!もしかしたら如月倫子がいるかも!)
約束の時間まであと30分、菜月は店内にその姿がないか周囲を窺った。観葉植物に隠れ、中腰で奥の席まで確認したが、如月倫子は居なかった。
(良かった)
安堵の溜め息が漏れた。菜月は、黒い鞄に手を伸ばした。ジジジジジジと開けるジッパーの音すら憚れるこの席で、周囲をしきりに窺う菜月は不審者に見えるかもしれない。
「いらっしゃいませ」
蝶ネクタイのウェイターが、水滴の付いたレモン水と、おしぼりをテーブルに手際よく置いた。
「ありがとう」
鞄のファスナーを引く指先の動きが止まった。訝しげな面持ちで黒い鞄に視線を落としたウェイターに作り笑いをした菜月は、ホットミルクティーと苺パフェを注文した。
(はぁ、これから不倫現場の写真を撮るのに、呑気に苺パフェなんて)
そう思いつつ、菜月は紙ナフキンの上に置かれた銀のスプーンをくるくると回して腕時計を見た。賢治と如月倫子の待ち合わせ時間は20:00、スプーンをテーブルに置いた菜月は、一眼レフカメラを取り出しその重みを確認した。
(これで賢治の不倫が確定する)
一眼レフカメラの本体にバッテリーを入れて蓋を閉じた。次にSDカードを挿し込む。赤い電源スイッチのボタンを押すと、確かな手応えと起動音がした。
「お待たせしました」
レンズが捉える白い生クリームに飾られた真っ赤な苺。鮮やかなミントの葉にピントが合った。
カシャ。
「ありがとう」
菜月は、苺パフェを撮影する振りをしてフロアとエレベーターホールにピントを合わせた。一眼レフのカメラのレンズは、通りすがりの表情を鮮明に捉えた。その時、ドアボーイが深々とお辞儀をして回転扉が回った。
(あれ)
回転扉から踏み出した革靴は、思いも依らない人物だった。
カシャッ
明らかに気分を害した面立ちは、菜月を凝視してフルーツパーラーに向かって来た。
「いらっしゃいませ」
「待ち合わせだから」
「かしこまりました」
深くお辞儀をするウェイターに「ホットコーヒー、ブラックで」と告げた湊は、菜月の目の前の椅子にどっかりと腰を掛けた。
「菜月」
「は、はい」
「これはどういう事なの」
「だって」
「だってじゃないでしょ!」
怒った湊は、菜月の手からスプーンを奪い取り、苺パフェの主役を口に頬張った。
「あっ!いちご!」
「いちご!じゃないよ!」
「だって」
機嫌の悪い湊は、左の中指でテーブルの上をトントンと叩きながら菜月を睨み付けた。
「勝手な事しないの」
「だって湊が」
「右手が怪我してるからって言いたいんでしょう」
「だって、カメラが使えないじゃない」
「とにかく!」
スプーンが菜月の目の前でぐるぐる回った。
「うっ」
「それならそれで出来る事だって有るよ」
「どんな事」
少し落ち着いた湊は、テーブルに届いたブラックコーヒーの白いカップに口を付けた。
「ちゃんとよく聞いて」
「う、うん」
湊は声を潜めた。
「賢治さんと如月倫子の写真は、とにかく1枚でも多く撮る事」
「う、うん」
「2人が並んでいる事が前提だよ」
「分かった」
そして湊は、身軽な菜月が2人を追尾し、客室の部屋番号を確認する事を提案した。
「その部屋番号を僕に教えて」
「分かった」
そして、フロントで待機している湊が2人の客室に隣接する客室をリザーブする。
「それでどうするの?」
「賢治さんと如月倫子が部屋から出て来た所をカメラで撮るんだ」
「出来るかな」
「出来るかな、じゃなくてするんだよ」
「う、うん」
不安げな菜月の手のひらを、湊がそっと握った。
「気付かれないように」
「うん」
「無理しないように」
「うん」
その時、湊の表情が変わった。
「菜月」
湊はコーヒーカップをゆっくりとソーサーに戻し、上機嫌で苺パフェを頬張っている菜月の腕を掴んで強く揺さぶった。
「な、菜月」
「ん」
「カメラ、カメラ」
「あっ」
ドアボーイがお辞儀をした隣には、焦茶のスーツの賢治が如月倫子を探して佇んでいた。その焦茶のスーツは、賢治が菜月と結納を交わした時に着ていた物だった。菜月は、この1年が次々と穢されてゆく感覚に陥った。
(賢治さん)
カシャ
人待ち顔の、賢治の面差しを連写する、菜月の腕は怒りに震えた。
カシャ
ソファに座る賢治は左手首の時計を気にしていた。約束の時間から10分が過ぎていた。賢治は脚を組み、肘を突いて携帯電話を弄り始めた。
カシャ
カシャ
ドアボーイが恭しくお辞儀をした。
「菜月、あれが如月倫子だね」
「間違いない、如月倫子だよ」
回転扉から優雅に姿を現したのは、タイトな黒いワンピースに白い真珠のネックレスを胸元に垂らした如月倫子だった。
カシャ
美しい横顔、忌々しい深紅の口紅。
カシャ
カシャ
その姿に気が付いた賢治が小さく手を振った。
カシャ
如月倫子は、ソファに座る愛人を横目に微笑みを浮かべながら通り過ぎた。その横顔を見送る賢治の惚気顔は見苦しく、反吐が出た。
カシャ
賢治はソファから立ち上がると、一目散にフロントへと向かった。
カシャ
如月倫子は一足先にエレベーターに乗り込んだ。
カシャ
「湊、これはどういう事なの?」
「予め、客室番号を指定してあったのかもしれないね」
「客室番号」
「どうしたの?」
菜月は、事務所で見つけたメモの2018を思い出した。「2018は、もしかしたら、2018号室かもしれない」その事を話すと湊の視線はエレベーターホールに釘付けになり、如月倫子が乗ったエレベーターが20階で停止した事を確認した。
「そうかもしれない」
「そうかな」
「試してみる価値はあるよ」
菜月は、賢治の後を追う事にした。口元を紙ナフキンで拭い、レモン水を口に含んだ。緊張で脚が震えた。パンツのベルトを締め直し、カメラストラップを首に掛けた。
(電源は、入っている)
湊が菜月の手首をグッと握った。
「賢治さんに気付かれないように」
「うん」
「フロントで待っている」
「うん」
「いいかい、部屋番号だよ」
「部屋番号」
「確認したらエレベーターホールで待っていて」
「分かった」
「その鞄は僕が預かるから」
「うん」
カシャ
菜月は行き交う人の流れに身を隠し、賢治の横顔を撮影した。賢治は数人の宿泊客と一緒にエレベーターに乗った。それは2階で停止し、3階でも停止した。停止と上昇を繰り返しながらゆっくりと動くエレベーターを横目に、菜月は隣の空の箱に飛び乗った。
(ごめんなさい!)
エレベーターに向かい足早に歩いて来る男性の姿があったが、菜月は急いで扉を閉め、20階のボタンを押した。高鳴る鼓動。心臓が今にも破裂しそうだった。
18階
19階
20階
ポーン
エレベーターの扉が開いた。菜月は(開)のボタンを押し続けた。
ポーン
賢治を乗せたエレベーターの扉が開いた。菜月はその気配に背中を向けた。
(カメラの電源は入っている)
その時だった。忌々しい白檀の香が鼻を付いた。
(如月倫子)
如月倫子の白檀の香が、まるで「こちらにいらっしゃい」とばかりに菜月を誘った。エレベーターホールに飛び出した菜月は、迷わずその香がする廊下へとカメラを向けた。
(いた!)
薄暗い廊下を賢治の背中が歩いて行く。
カシャ
そして幾つかの扉の前に立つ黒髪の後ろ姿の肩を抱いた。
カシャ
まさか自身の愚行がカメラで撮られているとは思いもしない賢治は、満面の笑みで客室へと消えた。客室のドアが完全に閉まった事を確認した菜月はエレベーターホールから飛び出し、向かって左側、手前から5番目のドアまで小走りで向かった。
(アッ!)
脚が絡み、崩れるように倒れるすんでで持ち堪えた。
カシャ
(2018号室、2018だった!)
菜月は携帯電話を取り出すとカメラを抱えながらエレベーターホールへ全速力で走った。そして小声で、「2018号室で間違いなかった!」と客室番号を知らせた。菜月からの連絡を受けた湊は、黒い鞄を手にフロントへと向かった。
「すみません、客室を指定しての宿泊は出来ますか?」
「可能でございます」
そこで湊は、菜月から聞いた客室を指定し、リザーブした。
「1名さまのご利用ですか」
「2人で」
「かしこまりました。2名さまご1泊で宜しいでしょうか」
「そうだね、お願いします」
湊はエレベーターの20階のボタンを押した。
ポーン
菜月の後ろ姿はエレベーターの音に驚き、猶に10センチは飛び上がった。
「み、湊」
菜月は興奮し、頬が赤らみ額に汗が滲んでいた。湊は菜月の手を引くとエレベーターホールから2番目の2011号室の鍵にカードキーをかざした。
エレベーターの扉がゆっくりと閉まる。
「菜月」
「湊、びっくりしちゃった」
湊に手を引かれた菜月は、賢治に見つかる事を恐れ2018号室を何度も振り返った。けれどそれは杞憂に終わった。湊がカードキーをドアノブに翳すとカチっと軽い音がして、2011号室の扉に緑のランプが点った。
「この部屋はどうしたの?」
「僕たちの作戦会議の部屋だよ」
壁の電源スイッチにカードキーを差し込むと、夜景の中に温かなオレンジの明かりが灯った。2人の姿が大きな窓に映った。
「あああああ、ドキドキした!」
湊が振り返ると、床に座り込んだ菜月がいた。その首には、黒い一眼レフカメラがぶら下がって揺れていた。
「菜月、お疲れ」
「う、うん、本当に疲れた!緊張した!」
湊が菜月の前に、室内履きスリッパを置き、微笑んだ。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
湊は菜月の首からストラップを外し、窓際のソファに腰掛けた。
「どう、ちゃんと撮れてる?」
湊は、菜月が撮影した画像を1枚、1枚、確認した。そのどれもが、賢治の不倫行為の証拠となるものばかりだった。
「すごいよ菜月、これなら興信所のスタッフに採用されるよ」
「本当!?良かった!」
やや薄暗いが2018号室に入る賢治と”女”の後ろ姿が写っている。ただ、如月倫子の顔が曖昧だった。
「如月倫子の顔が欲しいな」
「ごめん」
「菜月のせいじゃないよ、こんな角度じゃ僕でも無理だよ」
「うん」
「如月倫子が部屋から出る瞬間を撮ろう」
「でも、いつ?」
賢治と如月倫子が入室した時刻は20:20。2人が情事を終えて客室の扉を開ける時刻など、皆目分からない。
「賢治さんはいつも23:00過ぎには帰って来ていたんだよね?」
「でも今は、私が家に居ないから泊まりかも」
「そうだね」
長丁場になる事は予想が付いた。
「泊まりだとしたら明日の朝」
「でも油断は出来ないね」
「うん」
菜月と湊は客室の扉を10cmばかり開け、廊下の様子を窺った。そこに人の気配はなく、菜月と湊の2人しかいないような気さえした。
「これじゃ不審者だね」
そこで一眼レフカメラを手にした湊が閃いたとばかりに廊下に出た。
「ちょっ、ちょっと湊!どうしたの!」
湊は廊下に置かれた観葉植物の鉢植えの中にカメラを忍ばせ、シャッターを押した。1回目は気に入らなかったらしく、2回目の撮影はレンズの位置や角度を調節していた。
カシャ
「湊、なにをしているの?」
数回目の撮影では、観葉植物の葉が写り込んだが2018号室の扉を捉える事が出来た。
「菜月、無線だよ、Bluetoothで操作するんだ」
「携帯電話?」
「そう、携帯電話とそのカメラをBluetoothで接続して、リモート撮影しよう」
「出来るかな」
「出来るかな、じゃなくてするんだよ」
「うん」
2人は携帯電話のリモート撮影を、どのタイミングで行えば良いのか試行錯誤した。
「ストロボ機能はOFFだよ」
「うん」
賢治と如月倫子に、カメラのシャッター音を気付かれてはならない。菜月は忍足で2018号室の扉の前からエレベーターホールまでを往復し、シャッター音が聞こえない位置を探った。
「これぐらいの距離だね」
「うん」
「あんまり欲張って、見つかったら意味がないからね」
それは面差しが薄っすらと分かる程度だが、証拠写真としては十分だった。これで準備は整った。湊が扉の隙間から2018号室の動きを見張っている間、菜月はクイーンサイズのベッドで寛いでいた。
「あー、ふっかふか!」
「菜月」
「なに?」
湊の眉間にはシワが寄った。
「誰のために、こんな事をしていると思っているの?」
「ん?私のためだよね?」
「そうだよ、なのにその緊張感のなさはどうかと思うよ」
「…」
時計の針は23:00を回っていた。やはり宿泊、長丁場になるかと溜め息を吐いた時、廊下の空気が動いた。
「音がしたよね?」
「する」
緊張感が走った。
「菜月、部屋の電気消して」
「うん」
湊が携帯電話のリモート撮影画面を立ち上げ、菜月が部屋の電源スイッチからルームキーを抜いた。
キィ カチャン
客室の扉が開き、賢治が次いで如月倫子が顔を出した。
カシャ
「倫子」
「なに?」
「これからどうする?」
「ええ?どうしようかな」
「菜月はいない、ゆっくり出来るよ」
カシャ カシャ
2人は饒舌だった。これならばカメラのシャッター音に気付かれないだろう。湊は、数センチほど開けた客室扉の隙間に携帯電話を当てがった。柄にもなく、緊張で指先が震えた。
「そうね、私、軽く飲みたいわ」
「俺もそう思ってたんだ」
カシャ
賢治と如月倫子の気配が近付いて来た。
「そうね」
カシャ カシャ カシャ
仲睦まじく腕組みをする2人の横顔。菜月と湊は息を殺し、身じろぎもせずエレベーターの到着を待った。
ポーン
エレベーターが20階に到着し、賢治と如月倫子を乗せた箱の扉がパタンと閉まった。
「やった!」
「撮れたね!」
湊は観葉植物の中から一眼レフカメラを取り出し、菜月は部屋の電源スイッチにカードキーを差して扉を閉めた。
「ふぅ」
カメラを抱えた湊はその場で胡座を組み、画像を確認した。どれも思いの外鮮明で、賢治たちの愚行はデータとして手元に残った。
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