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再検査の結果が正式に通ったのは、午前八時四十分だった。
常盤リビング本社三階の会議室では、寝不足の顔をした面々が、いつもより少し静かに資料をめくっていた。けれど、その沈黙は重いものではなかった。どうにかここまで漕ぎつけた人間だけが持つ、くたびれた安堵が混じっている。
優元が最終の検査表を机に置く。
「防犯ブザー『夜道まもる』、外装強度クリア。スナップボタン付きマルチポーチ、押圧角度修正後の再現性、問題なし」
知雅がすぐに続けた。
「ポーチの台紙説明は、子どもが押す向きを矢印で示す形に変えました。図鑑の表現も、親が読み聞かせしやすい言い回しに差し替え済みです。最終データ、午後入稿で間に合います」
その言葉を聞いた瞬間、夢鈴が両手を机についたまま天井を仰いだ。
「生き返る……。もうだめかと思った……」
「大げさ」
沙央梨が短く言いながらも、口元だけは少し緩んでいる。
悠太朗は椅子の背にもたれ、携帯を振った。
「取引先も今朝の再報告で納得してくれた。売場縮小は回避。むしろ、図鑑の直し、前よりよくなったってさ」
「ほんとですか」
晴哉が聞き返すと、悠太朗は得意げにあごを上げた。
「俺が言ったんじゃない。相手が言った」
そこで妃雛が、待っていましたと言わんばかりにクリアファイルを机に差し出した。
「告知文、二案あります。ひとつは親御さん向けに安心感を前に出したもの。もうひとつは、新一年生が自分で持ちたくなる言葉にしました」
夢鈴が紙を受け取り、目を走らせる。ふだんなら真っ先に口を挟みそうな優元まで黙っている。会議室の空気が、自然とその紙の上に集まった。
「……いいじゃん」
夢鈴が言った。
「えっ」
妃雛が目を瞬く。
「いい。悔しいけどいい。こっちの『はじめての帰り道に、持たせたい』って一文、ちゃんと売場の空気になる」
妃雛は照れ隠しのように髪を払った。
「夜中に三回書き直したので」
知雅が小さく笑う。沙央梨はそのやり取りを見ながら、進行表の端を指で叩いた。
「では浮かれている暇はありません。本日中にやることを潰します。一階の地域連携コーナーは総務で設営許可を取った。夢鈴さん、写真。妃雛さん、告知文の最終。悠太朗さん、売場担当への共有。晴哉さんと麗さんは、一階で動線確認」
指示が飛ぶたび、各自が「はい」と短く返す。その返事の重なりが、昨日までのばらばらな焦りとは違って聞こえた。
昼過ぎ、一階の特設スペースには仮の売場が組まれていた。白い棚に「姫と夜桜」柄のポーチが並び、その横で防犯ブザー「夜道まもる」が小さく光を受けている。夢鈴が夜に撮った桜の写真は、背景パネルに使われると、やわらかい薄桃色の気配を棚の奥へ残していた。
「ここ、図鑑は平置きのほうがいいですね」
麗が言った。
「手に取りやすいし、親子で開いた時の見開きも見せやすいです」
晴哉はその隣で、小冊子を一冊持ち上げた。表紙の下に入った短い説明文は、昨夜までの硬さが消えている。
「『まちのあんしん図鑑 親子で読む、帰り道の約束』」
読み上げると、麗が小さくうなずいた。
「ようやく、何を渡したいのか分かる言葉になりました」
二人で棚の高さを見直し、ポーチのフック位置を調整し、防犯ブザーの色順を入れ替える。少し前までなら、どちらかが先に言い、どちらかが従っていた。今は違う。麗が気づいたことを晴哉が手で直し、晴哉が思いついた見せ方を麗が進行に落とし込む。その速さが、争わないからではなく、同じ方を見ているからだと分かる。
夕方、動画の試写が始まった。画面の中で桜の写真がゆっくり切り替わり、売場の映像に重なる。そこへ、ごく小さな音量で流れ始めたのが、あの古い販促ジングルだった。
――終わらない、ラブソング。
昭和の香りを少しだけ残した、妙にまっすぐな旋律。夢鈴は胸を張り、悠太朗は笑いをこらえ、妃雛は「やっぱりそこ使うんだ」と半分あきれた顔をする。けれど、出来上がった映像にその曲が重なると、不思議と古くささよりも、長く会社に残ってきた手ざわりのようなものが前に出た。
「悪くない」
優元が言う。
「優元さんがそれ言うと、かなりいいって意味ですよね」
晴哉が返すと、
「そこまで言ってない」
と、いつもの調子が返ってきた。
夜八時を回るころには、一階の特設スペースも三階の資料も、ようやく「前日」と呼べる状態になっていた。人が減った社内で、晴哉は最後の確認用ファイルを抱えて三階へ戻る。会議室の灯りは消えていたが、その隣の小さな打ち合わせスペースだけがまだ明るかった。
中では、麗が一人で売場写真と進行表を見比べていた。
「まだ帰ってなかったんですね」
晴哉が声をかけると、麗は顔を上げた。
「晴哉さんもです」
「俺はこれ、渡したら終わりです」
そう言ってファイルを差し出すと、麗は受け取って、机の端へ置いた。
沈黙が落ちる。気まずい沈黙ではなかった。今日一日、同じ場所を何度も行き来した二人には、言葉がなくても流れない時間があることを、もう知っていた。
晴哉は壁際に立てかけてあった細長い箱に目をやった。背景パネルの予備だ。その脇には、母の設計メモのコピーが、まだ透明なクリアケースに挟まれたまま置いてある。
「麗さん」
「はい」
「母さんのメモ、見つけた時、正直、ちょっと怖かったんです」
麗は黙って耳を傾ける。
「もう終わったことだと思ってたんですよ。実家の手伝いも、会社の仕事も、別々に頑張るしかないって。でも、あのメモに書いてあったの、全部、今の売場でやろうとしてることと同じで」
晴哉はゆっくり言葉を探した。
「片手で閉じられることとか、暗い道で握りやすいこととか、親が子どもに説明しやすいこととか。そんなの、派手じゃないじゃないですか。でも、毎日の帰り道には必要で」
「はい」
「俺、あれを見つけてから、仕事って、売るためだけのものじゃなかったんだって、もう一回思えました」
麗の目が、わずかに揺れた。
「それを今の形につなげられたの、麗さんがいたからです。俺一人だったら、きっと途中で、なんとなく丸く収めて終わってた」
「そんなこと」
「あります。俺、そういうの得意だから」
晴哉は少し笑った。
「でも麗さんは、曖昧なまま進ませなかった。怖いくらいちゃんと止めてくれた。だから、届くものになったんだと思います」
麗はすぐには答えなかった。机の上の進行表に視線を落とし、それから、静かに息をつく。
「私は」
言いかけて、一度止まる。
「ずっと、時間を守ることでしか、人を守れないと思っていました。遅れないこと、抜けを作らないこと、予定通りに進めること。それができれば、たいていのことは何とかなるから」
「うん」
「でも、予定通りじゃないことも起きます」
「起きましたね」
「起きました」
麗の口元が、かすかにゆるむ。
「それでも、晴哉さんがいると、少しくらい予定外でも立て直せると思えたんです」
晴哉は息をのんだ。胸の内側が、静かに熱を持つ。
「麗さん」
「はい」
「明日、全部終わったら」
そこまで言ってから、逃げずに続ける。
「これからも、君の歩幅に合わせたいです」
麗の睫毛が、ほんの少し震えた。驚いたようにも見えたし、もう分かっていたようにも見えた。けれど彼女はすぐには返事をしない。その代わり、晴哉の目を見て、それから静かに笑った。
「そういう大事なこと、発売前夜に言うんですね」
「今しかない気がして」
「困ります」
「困らせましたか」
「少し」
麗は手元の進行表を閉じた。
「だから、返事は明日です」
「明日」
「売場がちゃんと立ち上がって、図鑑もポーチも防犯ブザーも、無事に並んで」
それから、ほんの少しだけ声をやわらげる。
「明日、終わってから」
廊下の向こうで、誰かが消し忘れたラジオから、あの古いジングルのさびだけが小さく流れてきた。終わらないLOVE SONG。そんな題名のくせに、今の二人には、ちゃんと続きを待てる歌に聞こえた。