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読み終わりました。第66話、とてもいい回でした。 「比べなくていい」というナナちゃんの気付きが、それぞれの関係性の輪郭をより鮮やかに見せてくれた感じがします。高槻さんの「前より自分のこと考えてる」という指摘も、その後の「逆」の一言も、彼女の変化をしっかり受け止めているのが伝わってきました。直哉との時間、真瀬さんと向き合うときの少しだけ速くなる鼓動──どちらも本物で、だからこそ「比べるものじゃない」と腑に落ちる瞬間の清々しさが心地よかったです。 自分の感情を他人の反応で決めない。その一歩が丁寧に描かれていて、じんわりしました。次のエピソードも楽しみにしています。
家に帰ってからも、私はしばらく今日のことを考えていた。
遠くまで行った。
ただ、それだけのことなのに、いつもの外出とは少し違っていた。
電車に乗って、知らない駅で降りて、ご飯を食べて、本屋を歩いて、ベンチに座って。
何か特別なことをしたわけじゃない。
それなのに、思い出そうとすると、細かいところばかり浮かんでくる。
本屋で私が手に取った本を見て、
「それ好きなの?」
と聞かれたこと。
私が答えに迷っていたら、
「じゃあ、今は買わなくてもいいじゃん」
と言われたこと。
帰りの電車で、窓の外をぼんやり見ていた時間。
そして、
『今日、楽しい?』
と聞かれて、考えるより先に、
『楽しい』
と答えたこと。
あのとき、自分でも少し驚いた。
私はいつもなら、もう少し考える。
相手がどういう意味で聞いたのか。
どう答えたら変じゃないか。
「楽しい」と言い切ってしまって、重くならないか。
そういうことを考えてから言葉を選ぶ。
でも、今日は違った。
楽しかったから、楽しいと言った。
それだけだった。
スマホを見る。
直哉から新しいメッセージはない。
少しだけ残念に思った自分に気づいて、私は画面を伏せた。
そのままベッドに横になる。
目を閉じる。
すると、また今日のことが浮かんだ。
――また行きたい。
そう思った。
今度は、さっきよりはっきり。
でも、その直後。
別のことを考えた。
真瀬さんといたら、どうだろう。
高槻さんなら。
三崎さんなら。
私は、いつからこんなふうに考えるようになったんだろう。
誰といるのが一番楽なのか。
誰といると一番自然なのか。
誰に会いたいと思うのか。
誰の言葉が一番残るのか。
考え始めると、頭の中に四人分の違う時間が並んでいく。
真瀬さんといるときは、言葉が少なくても苦しくない。
高槻さんといるときは、気づけば笑っている。
三崎さんといるときは、何かを説明しなくても考えていることを待ってもらえる。
直哉といるときは、そもそも「どう振る舞うか」を考える必要がなくなる。
それぞれ違う。
だからこそ、比べようとすると変なことになる。
私は枕元のスマホを見た。
四人を横に並べて、誰が一番なのか決めようとしている自分が、急におかしく思えた。
一番、って何だろう。
話しやすさ?
安心できること?
会いたいと思うこと?
ドキドキすること?
自分らしくいられること?
全部を一つの物差しで測ろうとしたら、どこかが必ずこぼれる。
私はスマホを置いた。
「……比べなくていいのかも」
声に出すと、不思議なくらい納得した。
次の日。
店に入ると、いつもの空気が待っていた。
明るい声。
グラスの音。
誰かが笑っている声。
私はいつものように笑った。
「ナナちゃん、今日ちょっと遅かった?」
席に着くなり、高槻さんが言った。
「そんなに遅くないですよ」
「俺の感覚では遅い」
「それ、高槻さん基準じゃないですか」
「そう。だから信用しなくていい」
笑ってしまう。
こういうところだ。
高槻さんといると、会話が軽く続く。
何かを深く考えなくてもいい。
でも、それだけじゃない。
昨日のことを思い出していたせいか、私はふと高槻さんの顔を見た。
「どうした?」
「いえ」
「なんか考えてる?」
「ちょっとだけ」
「また難しいこと?」
「そうかもしれません」
高槻さんは少し笑った。
「ナナちゃん、最近よく考えるようになったよね」
「そうですか?」
「前はもっと、相手が何考えてるか気にしてた気がする」
その言葉に、私は少し黙った。
確かにそうだった。
誰かと話していると、私はいつも相手の顔を見ていた。
楽しそうか。
退屈していないか。
怒っていないか。
帰りたそうじゃないか。
自分の言葉が変じゃなかったか。
嫌われていないか。
そういうことばかり考えていた。
でも最近は、その前に一度だけ、自分の中を見るようになった。
私は今、どう感じているんだろう。
高槻さんが笑っている。
私は、それを見て楽しいと思った。
それだけでよかった。
「高槻さん」
「ん?」
「私、最近ちょっと変わったかもしれません」
「知ってる」
即答だった。
「そんなにですか?」
「うん。前より、自分のこと考えてる」
「……悪い意味ですか?」
「逆」
高槻さんはグラスを持ったまま、私を見た。
「前はナナちゃん、自分のこと後回しにしすぎだったから」
その言葉に、少しだけ胸が詰まった。
私は笑ってごまかそうとした。
「そんな大げさな」
「大げさじゃないよ」
高槻さんはそれ以上は言わなかった。
いつものように、余計なところまで踏み込んでこない。
私はそのことが、少し嬉しかった。
しばらくして席を離れる。
次の席へ向かいながら、私は考えた。
高槻さんといると、笑える。
その「笑える」は、直哉といるときの「何もしなくていい」とは違う。
真瀬さんといるときの静かさとも違う。
三崎さんといるときの、待ってもらえる感じとも違う。
でも、どれも私にとって本当だった。
だから、どれかを嘘にする必要はない。
それに気づいた瞬間、少しだけ楽になった。
夜が進んで、店内が落ち着いてきた頃。
真瀬さんが来た。
私は席に向かう途中で、その姿を見つけた。
その瞬間、ほんの少しだけ心臓が速くなった。
――あ。
思わず立ち止まりそうになる。
昨日、直哉と過ごした時間とは違う反応だった。
直哉のことを考えると、胸の奥がふっと緩む。
また会いたいと思う。
真瀬さんを見ると、少しだけ意識してしまう。
自分でも分かるくらい、身体のどこかが先に反応する。
私は席についた。
「こんばんは」
「こんばんは」
それだけ。
真瀬さんはいつも通りだった。
私もいつも通りに笑う。
「今日は忙しかった?」
「少しだけ」
「そう」
会話が途切れる。
でも、嫌じゃない。
むしろ、この静かさが落ち着く。
私はグラスに視線を落とした。
昨日、直哉といたときは、こんな静かな時間でも何も気にならなかった。
今は、真瀬さんとこうして黙っていること自体が心地いい。
私はまた比べそうになった。
でも、そこでやめた。
違う。
これは比べるものじゃない。
直哉といるときの安心と、真瀬さんといるときの惹かれる感じを、同じ「楽」という言葉に押し込めなくていい。
高槻さんと笑う時間も。
三崎さんに言葉を待ってもらう時間も。
全部、違う。
全部、本物。
「ナナ」
「はい?」
「今日、なんか考えてる?」
まただ。
私は少し笑った。
「分かります?」
「少し」
「……最近、考えることが多くて」
「そう」
真瀬さんは、それ以上聞かなかった。
その距離が、やっぱり好きだと思った。
その瞬間、私は自分の中で何かを認めそうになって、視線を逸らした。
好き。
その言葉を使うと、全部が決まってしまいそうだった。
だから、まだ言葉にしなかった。
ただ、自分の中にあるものを否定もしなかった。
店を出たあと、駅まで歩きながらスマホを取り出した。
通知は一件。
直哉からだった。
『今日は仕事?』
短いメッセージ。
私は少し笑って、
『うん。今終わったところ』
と返した。
すぐに返信が来る。
『お疲れさま』
それだけだった。
私は画面を見たまま歩いた。
たったそれだけなのに、また少し嬉しくなる。
でも、もう「じゃあ直哉が一番なのか」とは考えなかった。
そんなふうに決めなくていい。
誰かといるときに感じたものを、そのまま大事にすればいい。
安心するなら、安心する。
楽しいなら、楽しい。
惹かれるなら、惹かれる。
信頼できるなら、信頼する。
それぞれを勝手に一つの名前にまとめなくてもいい。
私は駅の階段を下りながら、ふと思った。
今まで私は、誰かを好きになることを「選ぶこと」だと思っていたのかもしれない。
一人を選んだら、他の人に感じていたものは消える。
一人に惹かれたら、他の人といて楽しいと思ってはいけない。
そういうものだと思っていた。
でも、本当は違うのかもしれない。
感情は、誰か一人を選んだからって、他のものまで嘘にはならない。
だから今は、まだ決めなくていい。
誰が一番なのか。
誰を選ぶのか。
その答えを急がなくていい。
ただ一つだけ。
私はもう、自分の気持ちを他人の反応で決めたくないと思った。
誰が私をどう見ているかじゃなくて。
私は誰といるとき、どう感じるのか。
そのことを、自分でちゃんと見ていたい。
改札を抜ける。
スマホを見る。
直哉からのメッセージは、もう増えていなかった。
それでも私は、少しだけ嬉しかった。
明日になれば、また違う人と話すかもしれない。
また違う感情が生まれるかもしれない。
それでもいい。
今は、誰か一人に答えを集めなくてもいい。
私はようやく、自分の気持ちを比べずに見られるところまで来ていた。