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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
昼休み、ペトロニオは珍しく真面目な顔で食堂の隅に座っていた。
いつもなら誰かの皿に勝手に唐揚げを一個足したり、謎の新商品ゼリーを配ったりしている男が、今日はスマホと手帳を行ったり来たりしている。
「どうしたんですか」
クリストルンが声をかけると、彼は周囲を見回してから小さく手招きした。
「座って。今は笑わない話」
「その前置き、逆に怖いです」
「怖いよ。だから座って」
向かいに座ると、ペトロニオは手帳を開いた。几帳面な字で、部署名と名前がびっしり並んでいる。
「ここ二十年で、急に異動した人を拾ってみた」
「え」
「広報ってね、案外いろんな話が耳に入るんだよ。送り出しの挨拶文とか、部署紹介とか、退職者の写真選びとか。表の仕事のふりして、裏の空気が見える」
軽そうに見えていた男の手元に、積み上がった年月がある。
「この時期」
彼は一行を指で叩いた。
「二十年前の秋、開発、品質管理、物流、経理補助。四人がほぼ同じ週に別の場所へ飛ばされてる」
「そんな偶然、あります?」
「普通はない」
クリストルンはページに顔を寄せた。
見覚えのない名前ばかりだったが、その並びはぞっとするほど意図的に見えた。
「口が軽いって思われてる人ほど、案外、誰も警戒しないんだよね」
ペトロニオは肩をすくめた。
「だから聞こえる。『あのときは仕方なかった』とか、『あれ以来、口をつぐんだ』とか」
「……ずっと、調べてくれてたんですか」
「笑ってるだけの男だと思った?」
「ちょっと」
「正直で好き」
彼はすぐに表情を戻した。
「まだ決定打にはならない。でも、“あの日だけがおかしかった”わけじゃない。周りごと動かされてる」
「ありがとうございます」
「お礼は早いよ。ここからが仕事」
そう言ってから、彼は食堂の入口をちらりと見た。
レリヤがトレーを持って入ってくる。こちらに気づくと一瞬だけ視線を向け、そのまま別の席へ座った。
「見てる人も増えてる」
ペトロニオは声を落とした。
「味方かどうかはまだ分からないけどね」
クリストルンはうなずいた。
小さな味方がひとり、またひとりと増えていく。
それでも同じ数だけ、こちらを見ている目もある。
「広報部の耳、借ります」
「高いよ?」
「質屋の娘なので値切ります」
「じゃあ、笑顔一回で手を打とう」
そう言われて、クリストルンは少しだけ笑った。
その直後、食堂の大型モニターに社内速報が映る。
“親子向け音声玩具案、経営企画室主導で再検討へ”。
自分のいないところで、自分の案が先へ進んでいく。
クリストルンの指先は、また静かに冷たくなった。