テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#海辺の町
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
翌朝、啓介は石段の下の自販機で缶コーヒーを二本買った。一本は自分用、もう一本は持っていく理由をうまく言えないまま手に取ったものだ。昨夜は浅い眠りを何度も行き来し、朝になっても鍵の重さだけが掌に残っていた。
離れへ入ると、芽生はもう窓を開けていた。朝の潮風が畳をなで、古い木の匂いを少しだけ軽くしていく。
「おはようございます」
「……おはよう」
啓介は無言で缶コーヒーを差し出した。芽生は受け取り、「ありがとうございます」と言ってから、啓介の手元を見た。
「手、貸してください」
「え」
「いいから」
言われるまま差し出すと、芽生は啓介の指先を見て眉をひそめた。薄く赤い跡がついている。昨夜、鍵を強く握っていたせいだと、啓介にも分かった。
「震えてます」
「朝は冷えるから」
「今日はそこまで冷えてません」
「海の上は分からないだろ」
「ここ、海の上じゃないです」
啓介は笑ってごまかそうとしたが、缶のふたを開ける指がうまく掛からない。ぷし、と情けない音がして、少しだけ中身がこぼれた。
芽生が黙る。
その沈黙のほうが、叱られるよりきつかった。
「……寝つけなかっただけ」
啓介が先に観念する。
「印刷所のことも、鍵のことも、頭の中でずっと回ってて」
「じゃあ、最初からそう言ってください」
「言ったところで何か変わるわけじゃ」
「変わります」
芽生はきっぱり言った。
「少なくとも、一人で平気な顔されるよりずっとましです」
啓介は返事に詰まる。人に世話を焼かれるのが苦手だ。弱っているところを見られると、役に立たない自分だけを差し出したみたいで落ち着かない。
そこへ義海が顔を出した。
「おはよー。うわ、朝から空気が重い」
「お前は軽すぎる」
啓介が言うと、義海はにっと笑う。
「重い顔が二人並ぶと、離れまでしょんぼり見えるからさ」
少しだけ空気が緩む。
けれど芽生は引かなかった。啓介の手から缶を取り上げて机へ置く。
「午前の聞き込み、今日は私が行きます」
「いや、それは」
「平気じゃない人の『いや』は、今日は通しません」
啓介は言い返しかけて、やめた。
強い口調なのに、突き放された感じはしない。ただ、ちゃんと見抜かれてしまったのだと思った。
芽生は最後に、昨夜よりずっと低い声で言う。
「啓介さん。平気じゃないです」