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1話 129フランスパン島スポット
港は朝から静かだった。
防波堤に寄せる波は低く、
音だけが一定の間隔で続いている。
団地へ戻る坂道を、
おおやどリカは歩いていた。
少し長めの上着。
袖は手の甲にかかり、
指先だけが出ている。
肩から下げた小さな鞄の横で、
電子マネーのキーホルダーが
わずかに触れ合って鳴る。
半端な残高のものがいくつか。
よく使う一つ。
それに、いつ付けたのか覚えていない
小さなお守り。
どれも目立たないのに、
外す理由もなかった。
団地の階段は低く、
段数も少ない。
踊り場の窓からは、
港のクレーンが少しだけ見える。
部屋に入ると、
床は冷たくもなく、
暖かくもない。
昼前。
買い物に行くつもりで、
靴を履き直す。
寂れたショッピングセンターは、
今日も人が少ない。
シャッターが下りたままの店。
古い案内板。
営業中の文字が、
ところどころ剥げている。
入口近くの自販機の前で、
同じ団地の人とすれ違う。
会釈だけで終わる。
四次元装置を操作する指は、
無意識に動く。
番号を入れる。
確定。
誰も驚かない。
誰も立ち止まらない。
移動して戻ってくる人もいる。
買い物だけ別のスポットで済ませて、
この島に帰る人もいる。
リカは移動しない。
センターの奥で、
友達の声が聞こえる。
軽い上着。
動きやすそうな靴。
肩から提げた鞄の横で、
ぬいぐるみほどのサルが揺れている。
「今日、行く?」
冗談みたいな調子。
「あとで」
そう答えると、
相手は深く考えずに笑った。
別の友達も合流する。
髪はきちんとまとめられ、
端末を確認する仕草が多い。
無駄な動きが少ない。
もう一人は、
少し派手な服装で、
複数のキーホルダーを
まとめて付けている。
歩くたびに音がする。
「ここ、落ち着くよね」
そう言われて、
リカは否定しなかった。
夕方。
港へ戻る。
船は少なく、
人影もまばら。
空気は変わらない。
景色も変わらない。
それが、
当たり前だと思っていた。
団地へ帰る道で、
キーホルダーを握る。
番号は、
まだここを示している。
何も起きない一日が、
静かに終わっていった。