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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
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湯のみを持ってきたモンジェは、店の真ん中でどっかり腰を下ろした。
「で、青年。名前は?」
「ルチノです」
「それは知ってる。名字だ」
「……ヴァルボンです」
空気が変わった。
ほんの一瞬だったのに、クリストルンにははっきり分かった。モンジェの笑い皺が消え、湯のみを持つ手にだけ力が入る。
「そうか」
それだけ言って、父は茶をすすった。
だが、うまく飲み込めなかったらしく、小さく咳払いをする。
クリストルンは顔を上げた。
「知ってる名字なの」
「まあな」
「“まあな”って何」
「昔、働いてた会社の社長の名字だ」
「それだけ?」
モンジェは答えない。
ルチノも、下手な言い訳をしない。むしろ背筋を正したまま、逃げない顔で言った。
「父のことで、何かあるなら聞きます」
「青年に聞かせる話じゃねえ」
「でも、娘には関係ある話ですよね」
クリストルンが割って入ると、モンジェは眉を寄せた。
「おまえが入る会社は悪くない」
「それ、この前も言った」
「言ったなら、覚えとけ」
「じゃあ、お父さんは何なの」
語尾が強くなる。
自分でも止められなかった。
「悪くない会社で、ノートを隠して、名前も消えて、昔の質札まで出てきて、それで“俺が弱かっただけ”で終わるわけないでしょ」
店の奥の時計が、こつんと一度鳴った。
モンジェはしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「そうだよ。終わってねえ」
「じゃあ」
「でも、今ここで全部話して、おまえの明日が軽くなるとも思えねえ」
クリストルンは唇をかんだ。
「軽くならなくても、知らないよりましだよ」
モンジェは娘を見た。
その目には、怒りより先に恐れがあった。
クリストルンは初めて、それをはっきり見た気がした。
「……ルチノ君だったか」
モンジェは視線をルチノに移す。
「おまえの父親が悪人だとは言わん。だが、あのころの白椿トイズで、俺は負けた」
「何に」
「言えなかった自分にな」
それだけ残して、モンジェは立ち上がる。
「今日はもう帰れ。坂が暗くなる」
追い出すような口調だった。
けれど本当に追い出したいのは、昔の記憶のほうなのだと、クリストルンには分かった。
店を出る直前、ルチノが静かに頭を下げる。
「また来ます」
「物好きだな」
「大事な話が、まだ残ってる気がするので」
戸が閉まり、店内に沈黙が落ちた。
クリストルンは父に向き直る。
「弱かったで済ませないで」
小さな声で言うと、モンジェは振り返らないまま答えた。
「済ませたいのは、俺だ」
その背中が、いつもより少しだけ小さく見えた。