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――2026年 7月22日 午後八時四十五分
**■■県童ノ宮市湯山町麓 民宿「ふもと」三〇三号室**
「やだ! 絶対、やだ! まだ帰りたくない!」
マキオが泣いている。いや、泣いているというよりも喚き、叫んでいる。そして、足で、片足で床を激しく踏み鳴らしている。
ダンダンダンダン、ダダッ、ダン!
……あぁ、そう言えばマキオはいつもこんな感じだ。
普段は穏やかで、大人の言うこともよく聞くし、友達にも優しく親切ないい子。だけど、一たび何らかの原因でスイッチが入ると想像もつかない暴君、いや、怪獣と化す。
他人にそのことを話せば、大抵、「何だ、ただの子供じゃないか」と笑われる。確かにその通りだと私も思う。
だけど、そう言って笑っていられるのは、現時点で当事者ではないか、その怪獣の相手を誰かに押し付ける立場にいられる人間だけのようにも思える。
できれば私だって、いつも笑って過ごしたい。しかし、タイミングによればそう言うわけにもいかない時だってある。
「僕、帰らないよ! 絶対、まだ帰らないんだから!」
マキオの金切り声が一層高くなる。
涙で顔がグチョグチョだけれど、この子は別に悲しいわけじゃない。怒っているんだ。大人の都合で振り回されることに、涙と叫びで抗議を行っているんだ。
「だって、キミカちゃんと約束したもん! 明日も面白いところ、案内してくれるって!」
「――黙りなさい」
低く唸るように言うとマキオはビクッと身体を震わせ、黙り込む。目に涙をため、信じられないという表情で私を見上げている。
何なのよこの子は……。
舌打ちしたくなるのを私は全力で我慢しなくてはいけなかった。私の頭が割れそうな声で喚き散らかしておいて被害者面をしている。なぜ自分が叱られなきゃいけないのか、全く理解していませんと力一杯PRしているのだ。
全く何て嫌な子供だろう。
「大騒ぎしないでよ、家じゃないんだから。あんたの声で他のお客さんにクレーム入れられたら嫌でも追い出されるんだから」
「だって……!」
「だから、デカい声出すなって!」
堪え切れず、私は声を張りあげる。
これじゃ本末転倒。木乃伊取りが木乃伊になる、ってやつだ。
そう思った次の瞬間――、ドン、と低い音が鳴った。隣の部屋の誰かが苛立ちまぎれに壁を殴りつけたのだろう。
はいはい、悪うございますね。物分かりの悪い子供を連れているもので。
内心、舌を出しながらも囁くように、低くした声で私は言った。
「だっても、へちまもないの。このお仕事はもうおしまい。事務所もやめるの。稚児天狗も、このくだらない街もホント、ウンザリ。だから全部おしまいにするの。あんたは私と一緒に――」
そこから先、どうしても言葉にすることができなかった。
喉が詰まって息苦しくなり、冷や汗が流れる。膝がしらがガクガクと震え、止まらなくなる。
本当に私にできるんだろうか?
今さらのように不安が胸の中をジワジワと沁み広がっいてゆくのを感じた。
あの時、マキオが戻ってくるように望んだのが私なら、この子供を抱きしめてしまったのも私だ。だから、私が責任を取らなければと思った。だけど……。
「だって、だってキミカちゃんが、キミカちゃんと約束してくれたんだもん。明日はもっと面白い場所に案内してくれるって……」
メソメソとマキオが泣いていた。女々しく、情けなく。私の抱えた葛藤など知ったことではないとでもいうかのように同じ泣き言を繰り返す。
「それに、キミカちゃんのお父さんに頼んで、お祓いもしてあげるから塚森家にもおいでって」
「……は?」
思わず声がうわずった。
お祓い、だって? あの女、いつの間にそんな話をマキオに吹き込んだ?
大体、なにが塚森家だふざけるな.ちょっとばかりマジナイが得意で、たかだか魔道に、天狗道に通じているだけのクソガキに依存しまくっているだけの田舎者一族が偉そうに。
気がつけば私はケラケラと甲高く高笑いをしていた。何がそんなにおかしいのか、自分でも理解できず困惑したが、なかなか止めることができなかった。
「……ママ?」
不思議そうにマキオが首をかしげている。
腹が立つぐらいの間抜け顔だ。毎日毎日、こんなやつの世話をし続けてよくぶん殴らずにすませていると自分で自分を褒めたくなるぐらいの。
「……あー、もう面倒臭いなぁ」
心底、嫌な気分になって私は呻いていた。頭をボリボリとかく。髪の毛がみだれ、顔にかかる。その感触が不快で、私は吐き捨てるように。
「ね、マキオ。あんた、この際だからキミカちゃんのおうちに――、塚森家に巻き取ってもらいなよ」
「……え?」
「だから、私、もうあんたのこといらないって言ってんの。……分かる?」
声を高くして言うと、マキオの顔からみるみる血の気が引いてゆく。
その顔からはあらゆる感情が消え失せて、能面のような無表情となる。眉間に皺が寄り、何かを思い煩うような雰囲気。
ほら見ろ。憐れみを誘うような臭い芝居しやがって。
これがお前の本性なんだろ。本当にくだらない。
長いため息が出た。もうこうなったら言いたいことを全部、お腹にため込んできたことを投げつけてやろうと思った。
「もう、どこかに消えてくれないかな。鬱陶しいんだよ、何もかも。……どうせ、本当のマキオじゃないくせに」
短い沈黙の後――、深々とマキオは私に向かって一礼。
無表情のまま、だけど、酔っ払いのようにふらつく足どりで出口に向かって歩いてゆき、ドアを開け、そのまま部屋を出てゆく。
喉を反らしてケラケラとひとしきり笑った後、私はふと考えこむ。
既視感、というやつだろうか?
これと全く同じやり取りを、昔、どこかで見たことがあるような……。なんだったっけ?
ふと、私は横眼だけを動かしていた。
そこにあったのは客用の大きなクローゼットと大きな姿見。
思わず私は身を乗り出していた。そこに映し出された、世にも醜い表情を浮かべた女に私は見覚えがあった。
物心がついたばかりの私を常に罵り、なじり、脅し、時には殴り蹴り。必死の思いで私が稼ぎ貯めたバイト代を掠め取り、言うことを聞かなければタバコの火を肌に押し付けて。
私の涙と悲鳴を踏みにじり、尊厳を嘲笑い続けたあの女……。
「お、お母さん……」
情ないぐらい掠れた震え声が出た。グルッと胃がひっくり返るような感覚。
凄まじい吐き気が込み上げ、思わず口元を手で覆ったが――、私には自分のことを労わっているような余裕はない。
マキオ、マキオ、マキオ……!
違う、違うの。今のは違う。今のは私の本心じゃないの。
あんたのこと、いらないなんて思ってない。消えて欲しいなんて思ってない。そんなことを思うわけがない。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああ……!」
息子に対する謝罪と言い訳の代わりに口から漏れ出たのは訳のわからない叫び声。
涙を濃し涎を垂らし、へたくそな操り人形のように手足をメチャクチャに振り回して――、これ以上ないというぐらいの醜態をさらしながら私は部屋を飛び出していた。
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