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フユめん
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老人から分けてもらった米糠の発酵液は、工房へ運び込んだ途端にアンから三歩ぶん距離を置かれた。
「……匂いますね」
「発酵してるから」
「腐敗ではなく?」
「そこを確かめるんです」
アキムは小瓶を光へ透かした。
銀色の帽子を被ると、液の中には細かな粒が幾重にも浮かぶ。白枯れの病斑で見えた粒とは、集まり方も動き方も違う。
違うから有益だとは限らない。
前世なら培地や顕微鏡、温度管理された装置があった。ここにあるのは錬金術用の皿と瓶、それからミルヴァが一晩で組み上げた木箱だけだ。
「できた」
ミルヴァが机を叩いた。
木箱の内側には三つの小部屋があり、それぞれ底に魔石と水皿が置かれている。
「魔石の熱を板で逃がして、三段階。低め、真ん中、高め。正確な温度は分からないけど、同じ条件は作れる」
「十分です」
「壊れたら?」
「直してください」
「そう言うと思った」
ミルヴァは楽しそうに笑った。
アキムは発酵液を三つに分け、米糠の量と水の量を揃えた。別に、何も加えない水も用意する。
「病気を治す薬を作るのですか」
アンが尋ねた。
「まだ違います。まず、この液の中の何かが、白枯れの広がりを遅くするかを見る」
「遅くするだけ?」
「ゼロにできると思い込むと、見たい結果しか見えなくなるから」
自分に言い聞かせるように答えた。
切り取った病葉を同じ大きさに揃え、各条件の液を薄く塗る。健康な葉にも同じ処置をして、変色や腐敗が出ないかを見る。
そして待った。
半日後。
一番高い温度に置いた瓶の蓋を開けた瞬間、アキムは顔をしかめた。
鼻を刺す臭い。
表面には灰色の膜が張り、銀色の帽子越しにも、昨日の発酵壺とはまるで違う濁った粒が密集している。
「これは駄目だ」
病葉も健康な葉も、処置した部分がぬるりと崩れていた。
アンが息を呑む。
「病より悪くなっていませんか」
「……なってる」
胸の奥が冷えた。
知っているつもりだった。
微生物は温度で増え方が変わる。発酵も、条件を外せば腐敗へ傾く。
そんなことは教科書にも書いてあった。
なのに、どの温度で何が増えるかは分からない。魔力を含む水も、前世の水田とは違う。
「俺、分かった気になってた」
声が詰まった。
七日しかない。
失敗一つで、一日が削れる。
「アキム」
ディーヴオンが、腐った葉を覗き込んだ。
「失敗したのは、その一つだろう」
「でも――」
「三つ試した。なら、残り二つを見る」
慰めではなく、事実だけを言った。
アキムは唇を噛み、うなずいた。
低い温度の瓶では、発酵液そのものの変化がほとんどなかった。病葉の斑点も、何もしない葉と同じ速度で広がっている。
最後に真ん中の瓶を開ける。
酸味のある、老人の納屋と似た匂い。
健康な葉は変わらない。
病葉は。
「……止まってる?」
ミルヴァが顔を寄せた。
「止まってはいない」
アキムは定規代わりの目盛り紐を当てた。
「でも、広がり方が遅い」
対照の病斑は朝より指二本ぶん広がっている。真ん中の条件で処置したものは、その半分にも届いていない。
銀色の帽子を被る。
病斑の縁に集まっていた粒の外側を、発酵液由来らしい細かな銀粒が覆っていた。
何をしているのかは分からない。
栄養を奪っているのか。場所を塞いでいるのか。別の何かを出しているのか。
だが、結果は違う。
「やった」
声が漏れた。
もう一度、葉を見比べる。
「やった……!」
今度ははっきり笑っていた。
気づけばミルヴァが両手を上げ、ディーヴオンが大きく頷いている。
ムエイルはすでに記録表へ数字を書き込みながら言った。
「喜ぶのは結構ですが、一回では証拠になりません。条件を揃えて繰り返します」
「はい」
アキムは笑ったまま答えた。
アンだけは、複雑な顔で瓶を見つめていた。
「不浄なものを増やして、別の不浄を抑える……」
「不浄かどうかは、まだ決めなくていいと思います」
アキムが言うと、アンは反論しなかった。
ムエイルは四枚の札を切り、瓶と葉へ同じ記号を付けた。
「明日の朝、同じ条件でもう一度。農家の田でも使うなら、誰が作っても同じ結果になる必要があります」
「発酵壺そのものも一つだけじゃ足りないですね」
アキムが言うと、ミルヴァはすぐ工具箱を開いた。
「同じ形の壺なら村にある。温度はこの箱の目盛りで合わせられる。材料が足りなければ別ので代用する」
ディーヴオンも立ち上がる。
「老人の村へ人を出す。今夜中に米糠と壺を集めよう」
一人では、次の試験すら始められなかった。
その事実が、失敗の痛みとは別の熱をアキムの胸に残した。
そのとき、工房の扉が三度、強く叩かれた。
「教会監督官の命令である。扉を開けよ」
アンの顔色が変わる。
扉の外から、硬い声が続いた。
「病害由来の物質を意図的に培養しているとの報告を受けた。すべての培養物を、明日の日没までに廃棄せよ」
アキムの笑みが消えた。
机の上には、ようやく得た最初の結果。
その横には、まだ一度しか試せていない発酵液。
明日まで。
証明するには、あまりにも短かった。
コメント
1件
あおいです🌷 第4話、一気に科学と宗教の緊張が走って鳥肌立ちました。アキムが「分かった気になってた」と認める場面、すごく好きです。失敗の痛みを飲み込んで、それでも結果を確かめる手を止めない。ディーヴオンの「事実だけを言った」台詞が沁みます。最後の「明日の日没まで」という宣告で、せっかく掴んだ希望が一気に危うくなる…この畳みかけ、読んでるこっちの息も止まりました。