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数日後の午後、花屋は珍しく、切れ目なく客が入っていた。
一輪包みの評判がじわりと広がり、供花の受け取りに来た人が帰りに小さな花も買っていく。エフチキアは明るく声をかけ、ハヤは注文票を書き、澄江は黙々と手を動かす。その流れの中なら、ハヤも裏方のままでいられるはずだった。
「前から思ってたんだけどねえ」
常連の女性が、リンドウを選びながらふいに言った。年に何度も供花を頼む人で、花の持ちをよく見ている。
「あなた、ずっといるでしょう。この店に」
「はい」
「なのに、お名前が分からないのよ」
手が止まった。ほんの一秒だったのに、自分でははっきり分かるほど長かった。
女性は悪気なく続ける。
「ほら、あの子はエフチキアちゃんでしょう。おばあさまは澄江さん。で、あなたは……」
ハヤは伝票を持ったまま、口を開けなかった。名乗れば済む。たったそれだけだ。なのに喉のところで何かが硬くなり、声が出てこない。
エフチキアが、ぱっと自分の名札に手をやった。
「これ、貸しましょうか」
「だめ」
思ったより強い声が出た。
女性が驚き、エフチキアも目を丸くする。ハヤは慌てて目を伏せた。
「ごめんなさい。そういう意味じゃなくて……」
「いいのよ、いいのよ」
女性は気を遣うように笑ったが、その笑顔が余計に痛かった。
結局、会計を済ませるまで、ハヤは最後まで自分の名を言えなかった。女性が帰ったあと、店先の風鈴だけがやけに大きく鳴る。
「悪かったです」
エフチキアが小さく言う。
「違うの。あなたは悪くない」
「でも、貸そうとしたの、余計でした」
「違うってば」
違う。悪いのはエフチキアではない。分かっているのに、自分の中の何にあんな強い拒絶が出たのか、うまく説明できない。
ノイシュタットが珍しく軽口なしで近づいてきた。
「名札が嫌いなの?」
「……嫌いというか」
「重い?」
ハヤは返事をしなかった。それが返事になったのかもしれない。
夕方、客足が途切れてから、ジョンナが電子辞書を開いた。最近は、空いた時間があれば誰かが少しずつ中身を見ている。何かの作業のついでみたいに、過去の人の思考が今の店の隅へ座り込んでくる。
「これ、見て」
ジョンナの声に、ハヤは顔を上げた。
新しく見つかった短いメモには、こう残っていた。
『名を呼ばれるのは、生き延びる技術だ』
それを読んだ瞬間、店内の空気が一段静かになった。外では夕方の配達車が通り、遠くで犬が吠えているのに、そこだけ別の時間みたいだった。
「また名前」
オブラスが低く言う。
「偶然じゃないね」
ジョンナが指先で画面の縁をなぞる。
ハヤは、思わず自分の胸元を見た。無地のエプロン。何もついていない布。軽いはずなのに、今はやけに頼りなく見える。
生き延びる技術。
そんな大げさな言葉にしなくてもいいと思う。なのに、守森神社の山の話や、今日の常連の言葉と重なると、冗談では済まなくなる。
名前を呼ばれることは、目立つことではないのかもしれない。
ここにいると認められることなのかもしれない。
その夜、閉店後の店で、ハヤは紙切れに自分の名前を一度だけ書いてみた。細い字で、「ハヤ」と。
すぐに丸めて捨てたのに、その感触だけは指先にしばらく残った。