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#アラスター
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この世界は、僕にとってあまりに刺激が強すぎた。 朝の満員電車の殺伐とした空気、上司の吐き捨てるような合理的な言葉、深夜のコンビニで聞こえる誰かの舌打ち。社会という場所は、いつだって容赦のない「辛口」で僕の神経を逆撫でする。 僕はそれに耐えるために、自分自身の心も同じように硬く、辛く塗り固めて生きてきた。ブラックコーヒーを流し込み、感情を殺して、誰にも期待しない。それが、この街で溺れずに泳ぐための唯一の術だった。
そんな僕の人生に、不純物みたいに混ざり込んできたのが、結衣だった。
彼女は、僕が最も軽蔑していた「おめでたいほど甘い」人間だった。 「見て、この雲。綿菓子みたいでおいしそうだよ」 職場の屋上で、彼女は空を見上げてそんなことを言う。 「……ただの水蒸気の塊だろ」 僕が吐き捨てると、彼女は「またそんな辛口なこと言って」と、僕のデスクにキャラメルを一つ置いた。 「いいんだよ。人生なんて、これくらい甘口でちょうどいいの」
最初は煩わしかった。けれど、彼女が差し出すキャラメルや、甘いカフェオレや、脈絡のない柔らかい言葉を摂取しているうちに、僕の喉元にこびりついていたトゲは、少しずつ溶けていった。 気づけば、僕は彼女のいない世界を想像できなくなっていた。僕が辛い現実というスパイスに耐えられなくなった時、結衣はいつだって、甘いシロップを注いで僕を救ってくれたのだ。
僕たちは約束をした。 僕の誕生日の夜、彼女が一番お気に入りの「世界一甘口なカレー」を作ってくれるという約束だ。 「子供用ってバカにしちゃだめだよ。リンゴとハチミツがたっぷりで、一口食べれば嫌なこと全部忘れちゃうんだから」 彼女は得意げに笑っていた。それが、三日前のことだ。
誕生日の夜。僕は浮かれた気分で、彼女の待つアパートへと歩いていた。 雨が降っていた。冷たい、冬の始まりの雨だ。 交差点の向こう側、赤い傘を差した彼女の姿が見えた。彼女は僕を見つけると、千切れんばかりに手を振った。 すべては一瞬だった。 信号を無視して突っ込んできたトラックのライトが、彼女の輪郭を真っ白に塗りつぶした。 鈍い衝撃音。雨音をかき消すような悲鳴。 僕が駆け寄ったとき、彼女の赤い傘は無惨にひしゃげ、アスファルトには、彼女が抱えていた買い物袋から飛び出したリンゴが転がっていた。 彼女の手を握った。冷たかった。 あんなに温かくて、甘い世界を僕にくれた指先が、嘘みたいに冷えていく。 僕がどれだけ名前を呼んでも、彼女の瞳に光が戻ることはなかった。 葬儀のあとの数日間、どうやって過ごしたのか覚えていない。 ただ、気づけば僕は、彼女がいなくなった部屋にいた。 冷蔵庫を開けると、あの日、彼女が買っておいた食材がそのまま残っていた。リンゴ、ハチミツ、そして『甘口』と書かれたカレールー。
僕は、彼女が教えてくれた通りの手順で料理を始めた。 野菜を切る音が静かな部屋に響く。涙が溢れて、手元が霞んだ。指先を切っても、痛みすら感じなかった。 鍋から立ち上る香りは、驚くほど優しかった。彼女そのもののような、包み込むような甘い香り。 完成したカレーを皿に盛り、僕は一人、食卓についた。 一口、口に運ぶ。 「……っ」 喉が、胸が、締め付けられる。 甘い。あまりにも甘くて、優しい。 それなのに、僕の心は今、人生で一番ひどい激痛にのたうち回っている。 こんなに甘いものを食べているのに、現実はこれ以上ないほどに辛くて、苦くて、酸っぱい。 しゃくり上げる声が、カレーの湯気に混じった。 彼女はもう、僕にキャラメルをくれない。カフェオレを淹れてくれない。 世界はまた、あの殺伐とした「辛口」な場所に戻ってしまった。
それでも、僕はスプーンを止めなかった。 涙でぐちゃぐちゃになった顔で、噛み締めるように、飲み込む。 「……今日は、甘口で」 自分に言い聞かせるように、僕は呟いた。 窓の向こう、雨の上がった空が白み始めている。 彼女がいない。最愛の人が殺された。そんな絶望的な事実を抱えたまま、地球は今日も平然と回り、朝を連れてくる。 「……今日は甘口でいいんだ。そうじゃないと、やってられないから」 僕は目を閉じ、最後の一口を飲み込んだ。 胃のあたりに、わずかな温かさが宿る。 「……それでも、明日はあるから」 彼女が愛した、この「甘口な世界」を。 たとえ独りになっても、僕は呪いのように大切に抱えて、生きていかなくてはならない。 僕は立ち上がり、シンクへ皿を運んだ。 差し込む朝日は、昨日よりも少しだけ、眩しかった。