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#すれ違い
おまる
#ワンナイトラブ
発売前最後の土曜日、知雅は朝の打ち合わせで言った。
「机の上で詰めるだけだと、もう拾えない使い勝手があると思います。食卓に近い場所で見ましょう。親と子が並んで、実際に手に取る空気ごと」
提案された場所に、晴哉は一瞬だけ目を瞬かせた。
「うち、ですか」
「晴哉さんの実家の二階なら、座卓もありますし、子どもの動きも見やすいでしょう。ご家族の負担にならない範囲で」
麗はスケジュール表を見ながら、すぐに必要なものを書き出した。改良した防犯ブザー、向きを変えたスナップボタン付きマルチポーチ、「まちのあんしん図鑑」の仮製本。試すものが具体的になると、会議室の空気も少しだけ前を向く。
その日の午後、麗は弟を連れて、埼玉の商店街の端にある晴哉の実家へ来た。店先には樽と木札が並び、引き戸を開ける前から、ぬか床と醤油の匂いがやわらかく漂っていた。
「いらっしゃい」
一階の売場奥から顔を出した晴哉は、会社で見るより肩の力が抜けていた。薄い色の前掛けを外しながら笑う顔に、麗は一瞬だけ返事が遅れた。
「お邪魔します」
「どうぞ。二階、もう片づけてあります」
父はまだ腰に気をつけながらの動きだったが、麗たちを見るなり背筋を伸ばした。
「いつも息子がお世話になってます」
「こちらこそ、お借りしてすみません」
「借りるなんて。使ってもらえるほうがありがたいですよ」
その言い方が、社交辞令だけではないと分かる声だった。階段の上からは、祖母が「お茶いれるから手ぇ洗っておいで」と大きな声を飛ばしてくる。弟は少し緊張していたはずなのに、その声に押されるみたいに「はい」と返事をしていた。
二階は六畳と四畳半をつなげた座敷で、窓の外には商店街の屋根が見えた。座卓の上には、知雅が先に届けていった試作品と、付箋だらけの図鑑が並んでいる。
「最初は図鑑から見ましょうか」
麗がそう言うと、弟は仮製本を開いて眉を寄せた。
「これ、むずかしい言い方ある」
「どこですか」
「ここ。『周囲の大人に助けを求めましょう』より、『近くの大人を呼びましょう』のほうが分かる」
晴哉と麗は、ほとんど同時に顔を上げた。
「……それ、採用したいですね」
麗が言うと、晴哉もすぐうなずいた。
「親が横で読む時も、そのほうが声に出しやすいです」
祖母が湯のみを配りながら、図鑑をのぞき込んだ。
「難しい言葉は、読んでるほうが先に疲れるからねえ。子どもに渡すなら、一回で分かるのが一番だよ」
防犯ブザーは、弟が実際に鞄につけてみた。玄関まで歩いて、引き手の位置を確かめ、片手で引けるかどうか試す。前回の形より、迷う時間が明らかに短い。
「前のよりつかみやすい」
「音、怖すぎない?」
晴哉がしゃがんで聞くと、弟は少し考えた。
「怖いけど、困った時はこのくらいのほうがいい」
麗はその答えを聞いて、息をつくみたいに小さくうなずいた。会社では秒単位で進行を見ている人が、弟の一言にはちゃんと待ってから返事をする。その声は、職場で聞くものより半音ほどやわらかい。
「じゃあ、ひもはこの長さで進めます」
「うん。あと、ここ、夜だと見える色のほうがいいかも」
弟が指したのは、引き手の先端につけた反射材だった。窓際と廊下の薄暗さで見え方を比べると、たしかに白に近い銀色より、少し黄みのある色のほうが拾いやすい。
「現場でしか出ない意見ですね」
晴哉が言うと、麗はメモを取りながら返した。
「会議室で悩んでいた時間が、少し惜しくなります」
「でも、ここまで来たから拾えた意見でもあります」
「……そうですね」
今の言葉には、前みたいなぶつかる硬さがなかった。
次はポーチだった。スナップボタンの留め方を、祖母が自分の指で試し、弟が真似をする。向きを変えた試作品のほうが、押す場所が分かりやすい。さらに、片方の布端にわずかなふくらみをつけると、押さえる指が滑りにくいということまで分かった。
父が感心したように言う。
「店でも似たことありますよ。開けやすい瓶の蓋って、力の強さより、指の置き場所で決まるから」
商品は違っても、手で触れて使うものだという点ではつながっていた。晴哉は父の言葉を聞きながら、母の設計メモにあった一文を思い出していた。片手で閉じられること。親が子に説明しやすいこと。あの字は、こういう食卓の実感から出てきたのかもしれない。
夕方に近づくころ、祖母が大皿を運んできた。きゅうり、大根、なす。切り方の違う漬物がいくつも並ぶ。知雅は仕事があって先に戻ったが、残った面々は自然と座卓を囲んだ。
「食べながらでいいから、図鑑の表紙も見てちょうだい」
晴哉が言うと、弟は箸を持ったまま表紙を見た。
「これ、好き。夜の色なのにこわくない」
「夢鈴さんが喜びますね」
麗がそう言って、ほんの少し笑った。
会社では引き締まって見える人が、弟に小皿を寄せる時だけ、指先までやわらかい。晴哉はそれを見て、胸の奥が妙に静かになるのを感じた。守るために急ぐ人が、守りたい相手の前では、ちゃんと立ち止まっていた。
一方で麗も、晴哉が家でどう笑うのかを初めて知った。父に「盛りすぎだ」と漬物の量を突っ込まれ、祖母に「会社でもそんな顔してなさい」とたしなめられ、弟に「このポーチ、兄ちゃんが作ったの」と聞かれて慌てる。そのたびに晴哉は少し困ったように笑う。取り繕う笑いではなく、ここで長く暮らしてきた人の、湯気みたいに自然な表情だった。
「晴哉さん」
気づけば麗は、会社で呼ぶ時より小さな声で名前を呼んでいた。
「はい」
「図鑑の最後のページ、親向けの一言、もう少しやさしくできますか」
「できます。たとえば?」
「『見守りましょう』じゃなくて、『一緒に話してみましょう』のほうが、ここに合う気がします」
ここ、という言い方に、晴哉は少しだけ目を丸くした。
この家の空気に合う。食卓に合う。渡したい相手に合う。そういう基準で、麗が言葉を選び直しているのがうれしかった。
「それ、いいです」
「押しつける感じが減りますよね」
「はい。伝えるって、そういうことかもしれないです」
麗は返事の代わりに、湯のみへ視線を落とした。耳のあたりがわずかに赤い。夕方の光のせいだけではなさそうだった。
そこへ、祖母が何気ない調子で言った。
「麗ちゃんは、うちの台所に似合いそうだねえ」
一拍、いや二拍ぶん、座敷が静まり返った。
父が盛大にむせた。弟はきょとんとして祖母と麗を見比べ、晴哉は持っていた湯のみを危うく落としかける。
「ば、ばあちゃん」
「何だい、似合うもんは似合うよ。手つきがきれいだし、人の話を聞く時の顔が台所向きだ」
「台所向きって何ですか」
晴哉が慌てて言うと、祖母は平然としている。
麗はうつむいたまま固まっていたが、やがて耳まで赤くしたまま、ぽつりと答えた。
「……光栄、です」
その言葉で、かえって場の空気が妙に熱を持った。
窓の外では、商店街の店じまいの音がひとつずつ増えていく。発売前の不安も、直前の調整も、まだ消えたわけではない。それでも今この座敷には、仕事の続きを確かに前へ押す手触りと、説明しきれない気まずさと、少しだけ甘い沈黙があった。
晴哉は湯のみを置き直し、誰に向けるでもなく息を吐いた。
この人がここにいる風景を、想像してしまったことだけは、たぶん自分だけのせいではなかった。