教室に入ってきた遥の気配は、机の陰にさえぎられ、誰もが一瞬だけ目をそらした。だが、彼はすぐに周囲を察してしまう。先ほどの陰口の余韻は教室全体に張り付いていて、声に出さずとも、誰もが目を合わせようとしない。
「やっと来たか……」
小声で、前列の男子が言う。
「うん、待ってたんだよね、今日も走らせてもらうの」
女子のひそひそ声が混じる。
遥は強がりの笑みを浮かべながら、机の横を通り過ぎる。しかし、背後では目が光る。
「今日は掃除の続きからかな?」
「それとも、廊下での鬼ごっこから?」
机を片付ける間も、声にならない圧力が遥を押し潰す。ささやき、視線、ため息、わずかな笑い声——すべてが『お前は遊び道具』という空気に変わる。
「こっち、雑巾よろしく」
「こっちは窓拭きね、裸足でやってみて」
誰かが冗談のように言うが、その声に笑みを含む生徒もいる。遥はうなずくしかない。目立たぬよう、必死で作業に取りかかる。手の震えは見せまいとするが、無言の嘲笑は確実に届いてくる。
「やっぱりあいつ、使いやすいな」
「本当に、何やらせても耐えるし」
陰口はただの悪口ではなく、遥を心理的に支配する道具となる。全員が視線を交わし、次の指示を出すタイミングをうかがう。誰もが共犯で、誰も止めない。
遥は胸の奥で自己嫌悪を感じる。必死に耐えても、結局は笑いものでしかない。声に出せず、抗えず、ただ地面を見つめながら、指示に従うしかない。
「よし、廊下行くぞ」
「待ってました!」
遊びのように見えて、そこにあるのは徹底した心理的圧迫だ。廊下に出れば、クラス全体で遥を追い込み、誰もが視線と声で支配する。逃げ場はない。
「ほら、早く走れ!」
「こけろよ」
「もっと必死に!」
声にならない悲鳴やため息、汗ばむ手足——すべては他者の遊びのために晒される。遥の存在そのものが、クラスの遊び道具であり、心理的実験台である。
教室に戻っても、空気は変わらない。今日の陰湿な遊びはまだ終わらないことを、誰もが知っている。遥は笑顔を作りながらも、心の中では自己嫌悪と絶望に押しつぶされていた。
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