ホテルを出た二人は職場まで一緒に移動したが運よく誰にも会わなかった。
杏樹はいつもよりも早めにロッカーへ行き制服に着替えた。昨日と服装が同じだったので誰にも会わないうちに着替えたかった。
しかし憂鬱な事に今日は仕事の後居酒屋で副支店長の歓迎会がある。そこでは私服なので杏樹が昨日と同じ服装だと気付く人はいるだろうか?
そこで杏樹は昨日の着替えの際ロッカールームに誰がいたかを思い出す。
(美奈子先輩以外は1~2人しかいなかったし…それに上にはコートを羽織っていたから意外と服は見られていないかも)
そう思うと杏樹は少し安堵した。
一番に窓口へ行き朝の仕事を始めていた杏樹に後から来た美奈子が声をかける。
「杏樹、今日早いじゃん。アレ? なんか今日はイメージが違う?」
そこへ美奈子と一緒に降りて来た真帆も言った。
「杏樹先輩今日はなんだか可愛いです♡」
杏樹は自分のメイクがいつもよりも薄い事に二人が気付いたのだとわかった。
「き、気付きました? ちょっとイメチェンしようと雰囲気を変えてみました」
「前よりも薄化粧だよね? それいいよ、杏樹は薄化粧の方が似合うかも」
「ホントです♡ ナチュラルメイクの方が断然可愛いです♡」
褒められた杏樹は悪い気はしなかった。
「ありがとうございます。じゃあ今度からこの路線で行こうかなー?」
「うんうん、それがいいよ」
「ですです、絶対今の方がいいです」
二人に太鼓判を押された杏樹は、
(副支店長の見立ては正しかったんだ……)
と思った。
その後一階と二階の行員が営業フロアへ集まり朝礼が始まる。
杏樹の斜め前に立っていた正輝は薄化粧の杏樹を見て驚いた顔をしている。今までとは違う印象の杏樹にすっかり目を奪われているようだ。あまりにも正輝がじっと見つめるので杏樹はなるべく正輝の方を見ないようにした。
そして朝礼の最後に副支店長の優弥が声を張り上げて言った。
「最後に一つ、私から個人的に報告しておきたい事があります」
副支店長直々に個人的な報告があると言ったので行員達は一斉にざわめく。
「何っ? まさか結婚とか?」
「キャーッ、なになに?」
「個人的な報告って何ー?」
女性行員達が色めき立つ。
「実は私の家とテラーの桐谷さんの家が隣同士だという事が先日発覚しました」
そこで今度は男性行員達も驚きの声を上げる。正輝もかなり驚いているようだ。
支店長や役職者、それに庶務の沙織は事前に知っていたので特に驚いている様子はない。
「今朝も偶然同じ電車になり駅からここまで一緒に来ました。おそらく家を出る時間が同じなので今後もこういった事が増えるでしょう。そこで変な噂になっても困ると思い桐谷さんの許可を得てみんなに報告しておく事にしました」
そこで支店長の葛西が笑いながら言った。
「いっその事一緒に住んじゃったらどうだ? 二人とも独身なんだし」
葛西の冗談めかしてガハガハと笑った。その笑いに男性行員達も声を出して笑う。
しかしそんな葛西をたしなめるように庶務の沙織が言った。
「支店長! 冗談でもそういう発言はよろしくないかと」
「おっ、悪い悪い、こういう冗談も今はパワハラとかセクハラとか言われちゃうんだよなぁ。まったく嫌だよねー」
葛西のお茶目な態度に今度は女子行員達も笑い始める。
「じゃあそういう事でみんなよろしく! あっと…それから今日は副支店長の歓迎会がありますので参加出来る人は残るように」
「「「はーーーーい」」」
そこで朝礼は終わった。
その時美奈子が杏樹の傍に来て言った。
「ちょっとーどういう事? 私聞いてないー」
杏樹は動揺する。
「話そうと思ったんですけどなんかきっかけがなくて……」
「水臭いじゃない、そういうのは杏樹の口から聞きたかったなー」
「すみません…ちょっと色々と複雑で…それにまだ自分でもよくわかっていなくて……」
「自分でもわからないって何よ? えっ? まだなんかあるの?」
勘の良い美奈子はピピッときたようだ。
「まあいいわ。今日の歓迎会の後カフェでじっくり聞かせてもらうわ。いい?」
「わかりました……ほんとすみません」
「フフッ、怒ってないから大丈夫よ。じゃあカフェでよろしくぅ」
美奈子はご機嫌な様子で自分の持ち場へ戻って行った。
その日の夜は駅前にある居酒屋で優弥の歓迎会が開かれた。
歓迎会といっても最初に支店長の話と優弥の挨拶があった後は普通の飲み会へと移行する。
今日は窓口パートの主婦二人も参加していたので、杏樹と美奈子は窓口四人でテーブルを囲み美味しい料理とお酒を楽しんだ。
楽しい宴が終わると得意先課の行員達と一部の女子行員が二次会へ向かうようだ。
杏樹と美奈子と窓口パート二人は二次会へは参加せずにそのまま駅へ向かった。
「じゃあお先に失礼します」
「お疲れ様でした」
駅へ着くとパート二人は改札へ向かった。
二人を見送った杏樹と美奈子は駅裏のカフェへ向かう。駅の裏側なら同僚達に出くわす事もない。
カフェに入るとカウンターでコーヒーを買ってから二人は窓際へ座った。
座るなり美奈子が口を開く。
「で? どういう状況なの?」
「何から話していいのか……」
「副支店長の家が隣だって気づいたのはいつ?」
美奈子は待ちきれないといった様子で目を輝かせている。
「引越し当日に新居に行ったら向こうも同じ日に引越しだったみたいで偶然バッタリ会いました」
「キャーッ、衝撃的ーっ! びっくりして腰が抜けちゃいそう。で? で? それから?」
「で、次の日またマンション内で偶然会って引越し蕎麦をご馳走してもらいました」
「ヒャーッ、二人で蕎麦屋にーっ? 二人っきりで行ったのぉー?」
美奈子はほろ酔いのせいかすっかり興奮して目がハートマークになっている。
「なんか上司命令っぽくて逆らえずに……」
そこで美奈子がニヤけた顔のまま聞いた。
「ふーん、で? 他にもなんかあるでしょう?」
「はいっ? えっと…何かって?」
杏樹はとぼける。いくら親しい先輩でも優弥との事をあれこれ全部言える訳がない。
「へぇー、杏樹はいつから私に隠し事をするようになったのかなぁ?」
美奈子の探るような目つきに杏樹はドキッとする。そして手には汗が滲んできた。
「えっとその……」
「言いにくそうだから私から言うわね。杏樹、昨日と同じ服じゃん」
「!」
「もう一つ言うね。副支店長も昨日と同じネクタイだったなーって気づいちゃったのよ、私」
杏樹の額にジワリと汗が滲む。
「さては昨夜は副支店長と過ごしたな? え? でももし副支店長の家に行ったとしても杏樹の家は隣なんだから服は着替えられるのになんで? あ、副支店長も同じネクタイって事は二人共外泊? そっか、ホテルか! そうでしょ? 二人でホテル行ったでしょう?」
美奈子はニヤリと笑った。
(そうだ…美奈子先輩の趣味はミステリー小説を読む事だったわ……すっかり忘れてた)
杏樹はどうあがいても美奈子の推理をかわす事は出来ないと諦める。
「絶対に内緒ですよ……」
杏樹の言葉に美奈子の瞳は一層輝きを増し首を縦に振ってうんと頷いた。
「大丈夫よ。私の口が堅い事は杏樹も知っているでしょう?」
「もちろんわかってます。あのですね、実は……」
そこで杏樹は今までの事を洗いざらい美奈子に話した。
正輝に振られた日にバーへ行きそこで知り合った優弥と一夜を過ごした事。
その優弥が職場に副支店長として現れた事。おまけに引越し先の隣人が偶然優弥だった事。
昨日正輝がマンションの入口に立っていたので優弥とホテルへ避難した事。
そしてその流れでなぜか優弥と付き合う事になったと告げた。
ちょっとやそっとの事では驚かない美奈子だったが今はさすがに驚き絶句している。
なんとも衝撃的な話を聞いた美奈子は頭の中を整理し終えてから漸く口を開いた。
「すごーっ!!! まさかそんな事になっているとは想像もしなかったわー」
「ですよね。なんかすみません」
杏樹は恐縮する。
「ううん、いいのいいの。それにしても杏樹がワンナイトするとは意外だったわー」
「自分でも驚いています。いくら酔って自暴自棄になっていたとはいえ。あ、ちなみにあんな経験はあの時が初めてですからね」
「わかってる、わかってるよー。へぇーでもその一夜限りのお相手がある日偶然上司になり隣人になった? すごいよねーほんとドラマの世界だわぁ」
「自分でもびっくりです」
「で、副支店長と付き合う事にしたのは好きになったからって事でいいの?」
「……いえ、なんか自分でもよくわからなくて……なんか気付いたらそういう風になってたっていうか」
「エリートスパダリ男はよっぽど杏樹の事が気に入ったんだね。でもさ、嫌ではないんでしょう?」
「だと思います。私、嫌な人だったらはっきり断りますから」
「だよね。杏樹はいい加減な気持ちで付き合う子じゃないもんね。昔から好き嫌いははっきりしてるし」
「はい、でも今回はなんでか自分でもよくわからなくて…」
「って事は、感覚的なものなのかなぁ?」
「感覚?」
「そうそう、一緒にいて安心出来るなーとか心地良いなーとか?」
「あ、それはなんとなくあるような? ちなみに先輩も孝輔さんにはそんな感覚ってありますか?」
「もちろんあるよ。家族になるんだったらそういうのって一番大事だし」
「なるほど……」
そこで杏樹は思い返す。正輝と付き合っていた時に『安心出来る』とか『心地良い』と思った事があっただろうか?
いくら考えてみてもそんな思いはほぼ皆無だったような気がする。
どちらかといえばいつも相手の顔色をうかがい常に気を遣うような付き合いだった気がする。
「まぁこれからじっくり付き合ってみてその上で判断したらいいんじゃない?」
「判断って?」
「やーだ、付き合いの先には結婚があるでしょう? だから自分の結婚相手に相応しいかどうかを判断するのよ」
美奈子はケラケラと笑う。
「はぁ……」
杏樹はため息をつきながら平凡な自分がエリート上司の優弥をジャッジ出来る訳がないと思った。
「とにかく杏樹、これからは私が全力でサポートするから肩の力を抜いて頑張れ! せっかくのチャンスなんだからね。エリートスパダリ男をゲットして森田をギャフンと言わせてやれー。それと森田にはくれぐれも注意してね。ストーカーまがいの事をする元彼なんてただでさえろくな事はないんだから」
「はい。でも副支店長が隣に住んでいるって知ったらもう来ないのでは?」
「森田は副支店長の事が嫌いみたいだからもし副支店長が自分の元カノにちょっかいを出していると知ったらヤバいよねー。それがわかってて副支店長も二人の関係を伏せておきたいんじゃない? それにしても森田は社長令嬢とどうなってるんだろうねー」
「ほんとですよね、上手くいっていないのかな?」
「じゃない? 元々出世欲や玉の輿狙いの下心からなんだもん。そうそう上手くいくわけないわ」
「ほんとバカですよね」
「まあでもあんな奴らは放っておいて…とにかく杏樹と副支店長の恋は俄然応援するから頑張るのよ杏樹!」
「はぁ……」
杏樹は気の抜けた返事をするとまだ温かいコーヒーを一口飲んだ。