翌日、美宇は仕事が休みだった。
今頃、朔也は札幌に着いているはずだ。朝一番で出ると言っていたので、もう到着しているだろう。
札幌で『高梨亜子』と打ち合わせをすると考えるだけで、落ち着かなかった。
だが、本当に気になっているのは亜子ではなく、もう一人の女性の存在だと気づく。
(誰なんだろう……)
顔も名前も知らないその女性を思うと、美宇の心はやるせなかった。
相手の素性が分かれば少しは楽になったかもしれないが、知らないままの方が幸せなのかもしれないとも思った。
「あ~、うじうじしているだけの休日なんて、もう嫌!」
そう口にした瞬間、携帯が鳴った。
母親からの電話だった。
「もしもし、お母さん?」
「美宇、元気そうね。安心したわ」
「うん、元気だから心配しないで」
「仕事は順調?」
「まあまあかな。今ね、これまでとは違うタイプの作品を作ってるの」
「へぇ、それは楽しみね。お母さん見たいから、できたら写真送ってよ」
「わかった。それより、何か用?」
「ええ、年末は帰ってくるのか聞こうと思って」
「年明けから忙しいけど、年末からお正月まではまとまった休みがもらえそうだから帰るよ」
「そう、それならよかった。お兄ちゃんも大晦日に帰るって言ってたから、みんなで集まれるわね。楽しみにしてるわ」
「うん。また日付が決まったら連絡するね」
「お願いね」
「じゃあ、お父さんにもよろしく」
美宇は、母親との電話を切った。
(そっか、もうそんな時期か……飛行機、予約しないと……)
美宇はそう思い、スマホで予約サイトを開いた。
その頃、朔也は札幌にいた。
ホテルのラウンジでコーヒーを飲みながら、亜子と打ち合わせをしていた。
「では、その方向で会場を設置しますね」
「お願いします」
「それと、当日は北海道の新聞社と、美術雑誌の取材が入る予定ですので、ご対応をお願いしますね」
「分かりました」
打ち合わせが終わると、亜子が口を開いた。
「もしよろしければ、この後お食事でもいかがですか?」
亜子は期待を込めた視線を朔也に向け、にっこり微笑む。
しかし、朔也はすぐに答えた。
「すみません、今夜は先約がありまして」
「あら、そうなんですか?」
「はい。また、別の機会にでも」
「そ、そうですね……」
「では、これで失礼します」
「あ、はい。今日は、お時間いただきありがとうございました」
朔也は椅子から立ち上がり、亜子に軽く会釈すると、ゆったりとホテルの出口へ向かった。
その後ろ姿を、 少しがっかりした様子の亜子がじっと見つめていた。
今夜、朔也が会う約束をしていたのは、清水康太(しみずこうた)という男性だった。
清水は朔也よりも一つ年上だ。
札幌へ行くことが決まった直後、偶然清水から連絡が入り、この日会うことになった。
朔也が清水と会うのは、これが二度目だった。
待ち合わせの居酒屋に着くと、すでに清水は来ていた。
十年ぶりに会う清水は、以前と変わらず若々しかった。
「清水さん、お待たせしました」
「青野さん、お久しぶりです」
「ご無沙汰しています。お元気そうで何よりです」
「君もね」
二人は久々の再会に握手を交わし、半個室の席に向かい合って座った。
スタッフが来て飲み物と料理を注文すると、すぐに会話を始めた。
「あれからもう十年……月日が経つのは早いね」
「本当ですね……」
「青野さんの活躍は、いつも新聞や雑誌で見ていますよ。あの頃も『天才陶芸家』と呼ばれていたけど、今ではすっかり日本を代表する陶芸家ですね」
「いえ、まだまだです……」
そのときビールが運ばれてきたので、二人は乾杯した。
「ようやく、気持ちに整理がつきそうです……」
ビールを一口飲んだ後、清水が穏やかに言った。
「それは、よかったです」
朔也は静かに返した。
すると、清水が続けた。
「実は、結婚したい人ができました」
その言葉に、朔也は驚いて箸を止めた。
「え?」
「ははっ、驚かせちゃったかな。まあ、無理もないよね」
「いえ……」
清水はもう一口ビールを飲むと、穏やかな表情で言った。
「この十年……沼に沈んだまま時が止まったように感じましてね……でも、ようやく抜け出せそうです」
「それは、いいことです」
「うん。あの頃は君に辛く当たってしまい、本当に申し訳なかった」
突然、清水がそう言って頭を下げたので、朔也は驚いた。
「やめてください……僕は気にしていませんから」
「いや、今思い返しても大人げなかったと反省してますよ。でも、あの頃は誰かに怒りをぶつけないと頭がおかしくなりそうだった……それで君に辛く当たってしまった。本当に申し訳ない……許してください」
ふたたび深く頭を下げる清水を見て、朔也は少し切ない気持ちになった。
「仕方ないですよ。もし僕が清水さんの立場だったら、同じようにしていたと思います。ですから、どうかお気になさらずに」
朔也は穏やかな表情でそう告げた。
「君は相変わらず優しいね。そんなところに、彼女は惚れたのかもしれない」
「いや、そんなことないです。それに、彼女は私にこう言いましたから。『あなたよりも、もっともっと優しい人にめぐり会えた』って」
「彼女がそんなことを?」
「はい。いつもあなたのおノロケばかりでしたよ」
朔也はそう言って笑った。
「そう……でしたか……彼女がそんなことを……」
清水は目を赤くしながら言葉を詰まらせる。
そこで、朔也が続けた。
「今夜、誘っていただいて嬉しかったです」
「……また誘ってもいいかな?」
「もちろんです」
二人は穏やかな笑みを交わした。
酒が進み、すっかり打ち解けた二人は、会話に花を咲かせていた。
「青野さんは今、恋人はいないんですか?」
その問いに、朔也は少し照れたように答えた。
「付き合っている人はいませんが、気になっている人はいます」
すると、清水がすぐに反応した。
「そりゃ、ぜひ聞きたいなあ。どんな方ですか?」
「今、うちの工房を手伝ってもらっています」
「斜里で?」
「はい」
「地元の人?」
「違います」
「いや~、あの町まで行くなんて、ガッツある人だな~」
「仰る通りです。しかも、東京から来たんですよ」
「東京から? それはすごいな」
「それに、彼女……もしかしたら、個展で香織さんと会っているかもしれないんです」
「香織と?」
「はい。昔、彼女が言ってたんです。『個展で可愛らしい名前の高校生に会ったわ』って。おそらく、その時の彼女だと思います」
朔也の説明を聞いた清水は、信じられないという顔をした。
そして、朔也に尋ねた。
「どんな名前なんですか? 可愛らしい名前というのは……?」
「『美しい』に『宇宙の宇』と書いて『美宇』という名前です」
「たしかに、素敵な名前だな……でも、不思議な縁ですね」
「はい。最初は気づかなくて、しばらくしてから思い出しました」
「そっか……なんだか香織が二人を引き合わせたみたいだな」
「そうなんでしょうか?」
そこで二人は笑みを交わした。
賑やかなネオンが灯る都会の居酒屋で、二人は夜遅くまで語り合い、酒を酌み交わした。
コメント
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香織さんはもうこの世にはいない感じですね。その事に責任というか納得できない朔也が今も引きずっている感じ。でも今回の事で吹っ切れたのでは。
朔也様と清水さんと香織さんは三角関係だったの?でも何かの事故で香織さんは亡くなった?それから10年経って清水さんも朔也様も新しい恋を見つけた❣️朔也様はやはり美宇ちゃんの事気になっている❣️斜里町に早く帰って美宇ちゃんを安心させてくださいな(*´꒳`*)
香織さんは亡くなっているの?