テラーノベル
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第2話:解体屋の夜明け
深夜の静寂に包まれたゴズ精肉店。
しかし、その店内の空気は、かつてないほどの熱気と鉄錆の匂い、そして濃厚な獣の体臭に支配されていた。
「ふぅ……」
レンは大きく息を吐き出し、手にした解体包丁を見つめた。 刃こぼれだらけの、ただの安物の包丁だ。普段なら硬い筋一本切るのにも苦労する代物。 だが今、レンの目にはその包丁が、伝説の聖剣であるかのように輝いて見えていた。
足元には、巨大な肉の山が転がっている。 数分前まで、人類にとっての災害であり、絶望の象徴だったゴブリンの死体だ。
(俺が、これを……)
先ほどまでの自分であれば、目が合った瞬間に腰を抜かし、ただ貪り食われるのを待つしかなかったはずの存在。
それが今、自分の足元で物言わぬ肉塊と化している。ガインの肉を喰らい、レベル10へと跳ね上がった身体能力、そして脳内に刻み込まれた【剣聖の太刀筋】。それらがもたらした結果は、あまりにも現実離れしていた。
レンはゴブリンの首の断面から流れるどす黒い血を見下ろす。魔物の血肉。先ほどの英雄の肉ほどの芳醇な香りはしないが、それでも、今のレンの研ぎ澄まされた嗅覚は、その奥に潜む「力の源」を正確に嗅ぎ取っていた。
(喰えば、もっと強くなれる……)
手を伸ばしかけたその時だった。
「おいおいおいおい! なんだこりゃあ! どうなってやがる!!」
表の通りから、ひしゃげた悲鳴のような怒声が響き渡った。
ビクリと肩を揺らし、レンは咄嗟に血濡れた包丁を背後に隠す。同時に、先ほどまでの冷徹な捕食者の顔から、いつも通りの「怯える最底辺の少年」の顔へと表情をすり替えた。
足音荒く店に飛び込んできたのは、店主のゴズだった。
闇市でガインの装備を売り払い、懐を金貨でパンパンに膨らませ、上機嫌で帰ってきたのだろう。その顔はアルコールで赤く染まっていたが、吹き飛ばされた店の扉と、店内のど真ん中に鎮座する巨大な緑色の肉塊を見た瞬間、一気に青ざめた。
「ひっ、あ、あばばば……! ゴ、ゴブリン!? なんで街の中に魔物が……!」
ゴズは腰を抜かし、無様に尻餅をついた。手からこぼれ落ちた金貨が、チャリンチャリンと冷たい音を立てて血溜まりの中に転がっていく。人類にとってゴブリンとはそういう存在だ。街の防壁を越えて一匹でも侵入すれば、騎士団総出で討伐にあたらなければならない厄災。
「レ、レン。どういうことだこれは!」
声を震わせながらゴズはレンに尋ねる。
(どう答える……?)
レンの脳内を、かつてないほどの速度で思考が駆け巡る。
『俺が殺した』――そう真実を告げたらどうなる?
人類が魔物を倒すなど、この世界では天地がひっくり返ってもあり得ないことだ。もしそれが公になれば、ゴズからギルドや騎士団へと情報が回り、確実に連行される。
なぜ最底辺のスラムのガキが、災害級のゴブリンを殺せたのか。その秘密を吐かせるために過酷な拷問を受け、最悪の場合は生きたまま研究材料として解剖されるかもしれない。禁忌である「英雄の肉」を喰らって力を得たなどと知られれば、異端の怪物として火あぶりにされるのがオチだ。
もちろん今のレンには、レベル1の人間が束になったところで到底敵わないだろう。しかし、世界を敵に回せば生活が面倒になることは明白だ。
(……隠さなきゃならない。俺が力を得たことは、誰にも)
ここで用意すべきは「底辺のゴミ虫に相応しい、惨めで都合の良い奇跡」。レンはそう結論づけた。
レンは背後に回した手から静かに力を抜き、血濡れた解体包丁を自身の陰になるようそっと床へ置いた。そして意図的に呼吸を浅く乱し、歯の根が合わないほど全身をガタガタと震わせてみせる。先ほどゴブリンの首を刎ねた冷徹な捕食者の気配は完全に消え去り、そこにはいつも通りの「怯えきった最底辺の少年」の顔が張り付いていた。
「わ、わからないんです!」
「なに?」
ゴズが顔をしかめる。
「わからないってどういうことだ? お前、ここにいたんだろ」
「ええ、いました。このゴブリンがいきなり扉をぶち破って入ってきて……でも俺、もう食われると思って、目を閉じてうずくまっていたんです……。そしたら、ものすごい音がして……」
「音だと?」
「はい。目を開けたら……こいつが、そこにある肉用フックの台座に、自分から突っ込んで倒れてて……」
レンは、店の奥にある太い鉄製のフック掛けを指差した。先端は鋭く尖っており、大型の家畜や、冒険者の遺体を吊るすために使うものだ。
「勝手に死んだ……?」
ゴズは半信半疑の顔でゴブリンに近づく。
確かに、ゴブリンの首は見事に切断されている。刃物で斬り落とされたというよりは、凄まじい勢いで鋭利な金属に首から激突し、自重と速度で切断された……そう言われれば、そう見えなくもない傷口だった。
「馬鹿な……。いくら魔物でも、そんなドジを踏むか? いや、だが……他に説明がつかねえ。お前みたいなゴミ虫がゴブリンを倒せるわけがねえしな。もしかすると、他の魔物と争って深手を負ってたのか……?」
ゴズの脳内で、都合の良い解釈が組み上がっていく。レンは、ただ黙って怯えるふりを続けた。
「……ははっ! ははははははは!!」
唐突に、ゴズが狂ったように笑い出した。恐怖から解放された安堵と、それに続く爆発的な強欲。彼の目は、ゴブリンの死体を見て「金」の計算を始めていた。
「おいレン! こいつはすげえぞ! ゴブリンの魔石に、この硬い皮! それに魔物肉と言えばとんでもねえ高級品だ!
「て、店長、それじゃあ俺にも少しは……」
レンが控えめにそう口にした瞬間。
ドゴォッ!!
「ぐっ……!」
ゴズの分厚いブーツが、レンの腹を容赦なく蹴り上げた。先ほどのレベルアップで身体が強化されているため痛みはほとんどなかったが、レンはわざと派手に床を転がり、苦悶の声を上げた。
「調子に乗るなよ、拾いっ子のクソガキが。これは『俺の店』で死んだんだ。つまり、俺の所有物だ。お前みたいな役立たずに渡す金なんて銅貨一枚あるわけねえだろ!」
ゴズは醜く顔を歪め、レンの頭を踏みつけようと足を上げる。
(……殺す)
レンの瞳の奥で、氷のような冷たい殺意が閃いた。
今の自分なら、ゴズなど瞬きする間に肉塊に変えることができる。背後に隠し持った包丁を一閃させれば、この豚のように太った男の首など、ゴブリン以上に容易く宙を舞うだろう。
脳裏のシステムが、ゴズを「レベル1の脆弱な人類」として認識し、急所の位置を的確にハイライトしている。首、心臓、大動脈。どこを突いても一撃だ。
手首の筋肉が収縮し、刃がゴズの足首を斬り飛ばす軌道を描きかけた。
――だが、レンはすんでのところでその殺意を飲み込んだ。
(ゴズを殺して、その後どうする?)
レンの明晰になった頭脳が、瞬時にリスクとリターンを計算する。
確かにゴズを殺すのは簡単だ。恨みも晴らせる。だが、目の前にあるゴブリンの巨体はどうする?
レンには解体スキルはない。せっかくの高級品をダメにしてしまう可能性もある。専門的な技術を持っているのは、この店で何十年も解体業を営んできたゴズだけだ。
さらに重要なのは「販売ルート」だ。
王国において、魔物の素材の売買はギルドと騎士団によって厳しく管理されている。正規の『魔物解体・販売資格』を持つ者でなければ、素材を金に換えることはできない。
スラムの孤児であるレンが、巨大な魔石やゴブリンの皮を裏市場に持ち込めば、たちまち不審に思われ、騎士団の異端審問官に捕縛されて拷問を受けるのがオチだ。
(こいつは生かしておいた方がいい。……『道具』として)
レンは深く息を吐き、感情を完全に奥底へと沈めた。
踏みつけられそうになった頭を下げ、さらに弱々しい声を出して命乞いをするふりをする。
「す、すみません! 調子に乗りました! 店長の言う通りです!」
「ふん、分かればいいんだ。お前は一生、俺の下で血抜きでもしてりゃあいいんだよ。ほら、さっさとこの死体を地下の解体室に運ぶ準備をしろ!」
鼻息を荒くして威張り散らすゴズを見上げながら、レンは卑屈な笑みを浮かべた。
「あの、店長。俺、今日のことでちょっと閃いたんですけど……」
「あぁ? なんだ?」
「魔物って、たまに迷宮から溢れて、こうやって自滅することがあるんですよね? 俺、スラムの裏道とか、迷宮の入り口の近くを毎日探し回ってみようかと思うんです」
「はっ、死体拾いか? お前みたいなドン臭いガキが、魔物の死体を見つける前に他の野犬やスライムに食われるのがオチだぞ」
「それでも……もし、もしまた魔物の死体を店長に持ってきたら、その時は……」
レンはわざと目を輝かせ、いかにも浅ましい下層民の子供を演じ切った。
「その時は、金貨1枚で買い取ってくれませんか?」
その言葉に、ゴズはきょとんとした後、腹を抱えて大爆笑した。
「ぎゃはははは! 金貨1枚!? 魔物の死体を持ってくればだと!? おいおい、お前、この奇跡が二度も起こると思ってんのか! いいぜ、約束してやるよ! もしお前が次に魔物の死体を持ち込んできたら、金貨1枚くれてやる! どうせ無理に決まってるがな!」
ゴズはレンの提案を、宝くじにも劣る与太話として快諾した。
金貨1枚。それはスラムの人間が数年は遊んで暮らせる大金だが、ゴブリン一体から得られる利益に比べれば、鼻くそのような額だ。ゴズからすれば、万が一にもレンが拾ってくれば丸儲け、死んだら死んだで新しい拾いっ子を探せばいいだけの話だった。
「ありがとうございます、店長! 約束ですよ!」
レンは何度も頭を下げた。
床に伏せたその顔の裏で、レンの口角は三日月のように吊り上がっていた。
(交渉成立だ、豚野郎)
これで、自分が魔物を狩っても、それを不自然なく換金するルートが確保できた。
「拾ってきた」という建前さえあれば、ゴズは自分の強欲さゆえに、それ以上の詮索はしないだろう。疑念よりも利益を優先する男だからだ。
(強くなる。もっと。英雄の肉なんかじゃ足りない。魔物の肉を喰らい、魔物の命を喰らい尽くしてやる)
夜明けの冷たい風が、壊れた扉から店内に吹き込んだ。
ただ怯え、理不尽に耐え、死体の処理だけをして生きる日々は今日で終わったのだ。
人類最弱の少年が、生態系の頂点へと反逆の牙を剥いた瞬間。
屍喰らいの解体屋の、本当の朝が始まろうとしていた。
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