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休憩スペースの一角で、缶コーヒーを奏が一気にゴクゴクと飲み干している。昨夜は他者の書いた栄養学の研究論文を読み耽ってしまったために寝不足で、カフェインでも摂らないと乗り切れない状態だ。
「いい飲みっぷりだね、義兄さん。もう一本いく?飲むなら自販機で買って来るけど」
すっかり一緒に休憩時間を過ごす事が当たり前になってきている陽が、楽しそうに笑いながらそう言った。
他社の重役との会食があったなどの理由でお昼ご飯が別々になった時はもう、必ずと言っていい程、彼は当然の様な顔をしてこの場所で奏を待っている。顔を出す時間なんか毎度バラバラで、気が向いた時にふらっと仕事から抜けて十分から二十分程度取っているお休みなのに、どうして陽は毎度毎度、待っているのだろうか。
(実は秘書課って案外暇?……いや、そんなはずは無いか)
ちょっと前に大きな企画が持ち上がった時、チームの補佐や上層部との連絡係としてついてくれた秘書課の人の仕事っぷりを見ていた限りでは、自分がやったら目が回りそうな程の管理業務と働きぶりだったし——などと、あっさりと空っぽになった缶コーヒーの飲み口の奥に見える真っ黒な空間を、ぼぉっとした顔で奏が覗いていると、陽が再び彼女に声をかけた。
「……義兄さん?大丈夫?起きてる?」
返事がない事を気にし、奏の顔をそっと覗き込む。突然視界の隅に端正な眼鏡男子の顔が入り、驚いた奏は、椅子ごとガタタタタッ!と大きな音をたてながら後ろに下がった。
「ご、ごめんなさい。びっくりして。ちょっと考え事をしていたので、顔が近くって」
「あはは。義兄さんでもそんな事あるんだね」
上手く喋れてすらいない奏の姿が可愛くって、陽の笑顔がよりほっこりとしたものへと変わった。
「失礼ですよね。一人って訳でもない時にぼぉっとしてしまって、ごめんなさい」
「いいんだよ。義兄さん可愛いから、何でも許しちゃう」
そう言いながら、陽は奏の手の中から空になった缶を抜き取り、開封済みの微糖の缶コーヒーと入れ替えた。
「ども」だなんて普段言わないような返答をし、奏はまたゴクゴクと、さっきよりも少し甘くなった缶コーヒーを飲み始めた。
丸テーブルに頬杖をつき、陽は奏がコーヒーを飲む姿をじっと見詰める。小さな口の端から少し茶色い液体が溢れ出したりした時はそっとティッシュを差し出しながらも、頭の中ではそれを白濁液へと変換して、勝手にゾクゾクと震えていた。
(煽る様に飲んじゃって……あぁ、私のも片手で掴んで一気に飲み干して頂きたい!)
何を、の部分は自主規制を入れつつ、奏の飲み物が無くなったら次の缶にすり替えて——という作業を、彼らは何度も繰り返す。次々と追加されて手元の物が無くならない。これではまるでわんこそば状態だ。
だが、眠い頭の奏は『減らないなぁ。飲み終わったら仕事に戻ろうと思ってるのに』と考えながらも、そのまま飲み続けてしまう。そんな奏が面白くって愛らしくって、陽はもう止まらなくなってきた。
流石にもう飲み進むペースがかなり落ち、目の前のテーブルに小さめの空き缶がずらっと七本程並んだ時、奏の体が軽く震えた。一気に飲み過ぎたせいで、ついに尿意を感じたのだ。
「すみません。自分ちょっと……えっと、お花摘みに行ってきますね」
缶コーヒーをテーブルにひとまず置き、席を立とうと軽く腰を上げる。すると陽は不思議そうな顔をしながら「え、どこへ?」と訊いてきた。
「花壇とかの花は勝手に摘んだらまずいんじゃない?お花が欲しいなら、花束でも買って来ようか?」
(あ、コレは言葉の意味が通じてないですね)
その事に奏は気が付いたが、同じ意味の言葉を、しかも『トイレに行く』と二度言うのがちょっと恥ずかしくって、くっと少し口を尖らせた。
誰にだってある生理現象なのだ。そんな事を他人に言う程度、なんでもない。今まではそう思っていたのに、陽に告げると思うとちょっと何だか不思議と照れくさい。自分もするのだと直球の言い回しで言うのがちょっと嫌だったので『お花摘みに行く』と遠回しな言い方をしたのだが、通じないというオチがあるとは奏は思ってもいなかった。
でも、何も言わないままでは離席し辛いので、仕方なしに「……お手洗いに行って来ます」と陽に告げる。照れが少し出てしまったせいか、彼女の耳が少し赤い。その事に目敏く気が付いた陽は即座に立ち上がり、「私も一緒に行くよ!」とキラキラとした笑顔で言った。
「え、無理です」
奏は即座に断った。当然だ、何故女子トイレに男性と一緒に行かねばならないのか。中にまで入る気は当然無いのだろうが、上役をトイレ前の廊下で待たせるとか、それはそれでさせたくない。なのに陽は奏の考えなど素知らぬ顔で「行こうか」と言いながら彼女の腕を引いて歩き出した。
「あ、や、あの——」
無理無理無理!と心の中で叫びつつ、連行に近い状態でトイレのある方向へ二人が進む。こうなってはもう陽を止める事は出来なさそうだ。もっと強気に出ればやめさせる事も可能かもしれないのだが、『彼は上役なのだ』と思い出しただけで瞬時に身が竦む。
このまま一緒に行くだけ行って、女子トイレに逃げ込む?でもそれは、奏を“オトコの娘”だと思っている陽に『そっちじゃ無いよ』と止められそうで何だか嫌だ。お手洗いの前でまた一悶着などしたくは無いし、もし誰かに見られでもしたら恥ずかしい。
だがしかし、男子トイレに勢いで入るのも、それはそれで出来れば避けたい。
(自分は今だけ掃除のおばちゃん!と言い聞かせるか?渋滞時のパーキングエリアに『あら、こっちは空いてるじゃないの!』と言って男子トイレに突入するオバさん並みに肝の据わった態度を取る?)
——どっちも無理だ!
そろそろお手洗いの入り口が見えてきた。そのせいで奏の焦りが加速するが、陽の方はテンションが上がっている。
個室に連れ込み、用を足すのを手伝っちゃう?兄さんの可愛いだろうなぁ。案外凶悪だったりして!それならそれでギャップ萌えかもー……と、陽の妄想は膨らみ、下半身も硬さを持ち始める寸前だ。
用を足す奏の姿を覗き見る気満々な陽は、今にも鼻歌でも歌い出しそうな状態にある。そんな彼に引っ張られつつ、『何でこの人はこんなに楽しそうなんだろうか?』と奏は不思議に思った。
(姉弟での行動がそんなに嬉しいんでしょうか……。や、でもやっぱり、トイレは無理です)
結局、奏は男子トイレと女子トイレのちょうど中間に設置されている多目的トイレに「送迎ありがとうございました!」と言って、一人で逃げ込んだ。掴まれていた腕を振り払う形になってしまった事に申し訳なさはあったが、デリケートな話なのでもう仕方がなかったのだと割り切ることに。
陽の方はといえば、覗く機会を逃した事で舌打ちをしたい気分になったが、彼は大人しく廊下で待っていた。
「まぁ……また機会はあるよね」
廊下の窓側に寄りかかり、黄昏た顔で陽が外を見る。
そんな陽の前を他の社員達が、『憂いを帯びた青鬼さんカッコイイ!』と思いながら通り過ぎて行くのだが、彼の頭の中は奏の痴態でいっぱいなのであった。
コメント
1件
わんこそば式に缶コーヒーを無限追加してくる陽さん、怖いけど面白すぎる(笑)。「お花摘み」が通じないオチも、トイレに連行されそうになって多目的トイレに「送迎ありがとうございました!」って逃げ込む奏さんも可愛すぎて抱きしめたくなった。陽さんの「また機会はあるよね」はアウトだけど、このすれ違い劇、ずっと見ていたいです。続き気になる〜!
아 오 🐷 🐶
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23
#シングルマザー
水羽凛
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