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夕方の裏口会議は、いつのまにか人数が増えるようになっていた。花の桶の脇に焼き菓子の缶があり、神社の箒が立てかけてあり、図書室の本が積まれ、誰のものか分からない軍手まである。まとまりはないのに、少しずつ居場所の形になっていく。
その日、最初に口火を切ったのはドゥシャンだった。
「守森神社の裏山にはな、名前を忘れられた人を拾う神様がいるんだ」
「また大きく出たね」
アンネロスが笑う。
「大きくないって。昔からある話だぞ。道に迷った人とか、帰る場所がなくなった人とか、そういうのを拾ってくれる」
「拾う神って、ずいぶん実務的ですね」
ジョンナが興味を持った顔をした。
ドゥシャンは得意になって続ける。
「で、その神様に拾われると、ちゃんと名前を呼ばれるまで山から出られない」
「怖い話ですか」
エフチキアが目を丸くする。
「少し怖くて、少し優しい話だ」
ドゥシャンはひどく真面目な声になった。
ハヤは聞き流すつもりだった。神社には昔話がつきものだし、ドゥシャンの口から出ると半分くらいはその場の勢いで増えている。ところが、ジョンナが本気の顔でメモを取り始めたので、話の空気が変わった。
「図書室に民俗記録があったはず。守森神社の縁起と、山道での呼びかけの作法が載っていた気がする」
「作法?」
ハヤが聞き返す。
「遭難防止の古い知恵よ。山では名前を呼ぶ、場所を伝える、返事をさせる。そういう習慣が神様の話に混ざることはある」
ノイシュタットが、いかにも面白そうに顎へ手を当てた。
「つまり、霧守町では昔から“名を失うな”が生存戦略だったわけだ」
「少なくとも、今の話だけならそう読めます」
ジョンナは冷静に返す。
そこへ、ノイシュタットが横目でハヤを見た。
「なるほど。無名でいたがる人には、ずいぶん居心地の悪い神話だ」
「誰のことですか」
「もちろん、名札のない花屋の店員さん」
「からかわないでください」
「からかってはいない。神話との相性を論じている」
「同じです」
ハヤの声が少し強くなる。裏口の灯りが、コンクリートの床へ四角く落ちている。その明かりの内側で名前の話ばかりされると、逃げ道が狭くなる気がした。
ジョンナが場を取りなすように本を開いた。
「これ。前に読んだ記録です。『山に入る者は、互いの名を確かめよ。名を呼ぶことは帰路をつなぐことなり』」
静かな読み上げだったのに、ハヤの胸へは深く刺さった。
帰路をつなぐ。
たったそれだけの言葉なのに、今の自分には重い。名乗らなければ楽だと思っていた。誰にも覚えられなければ、いなくなっても静かだと思っていた。
けれど、この町では、昔から逆の意味を持っていたのかもしれない。
「祭りと関係あるかな」
エフチキアが訊く。
「あると思う」
ジョンナは即答した。
「嘘の実話祭りって、ただ笑わせるだけじゃなくて、町の店や道や人のことを覚えてもらう仕組みだったはずだから。語って、聞いて、名を残す。山の守り神の話と、たぶん地続き」
ドゥシャンが得意そうに胸を張る。
「ほら見ろ。俺の話、ちゃんと役に立った」
「半分はたぶん君の盛りだけどね」
アンネロスが笑いながら焼き菓子を投げてよこす。ドゥシャンは危なっかしく受け止めた。
ハヤは何も言わず、裏口から見える神社の方向を見た。山は夕闇の中で輪郭だけを残している。名前を忘れられた人を拾う神様。馬鹿げていると思うのに、少し怖くて、でもやさしい。
その夜、ジョンナは図書室からさらに記録を探してくると言い、ノイシュタットは「神話を企画書に入れると品が出る」と勝手なことを言い、ハヤはそれを聞いてまた怒った。
けれど、怒りながらも、心のどこかでは引っかかっていた。
もし本当に、名前を呼ばれることが帰るための道しるべなら。
自分は今まで、どこへ帰るつもりで無名のふりをしていたのだろう。