翌日、凪子は南青山にいた。
新しく立ち上げる新ブランド『fierte(フィエルテ)』の監修を依頼している、
売れっ子デザイナー・戸崎信也の事務所へ挨拶に行く為だ。
信也は、現在42歳。
信也はパリコレから毎年声がかかるほどの超有名デザイナーで、
財界や政界などの著名人の妻や、経済界の大物からもひいきにされている。
信也は美大を卒業後画家を目指していたが、ファッショ業界にいる知人に頼まれ、
一度だけのつもりでテキスタイルデザインを担当した。
その時の作品が大ブレイクし、あっという間にファッション業界から引っ張りだこになる。
それをきっかけにこの業界へ足を踏み入れ、今では本業となっていた。
凪子と信也が出逢ったのは、まだ凪子が今の会社に入ったばかりの新人の時で、
信也の事務所が主催する、ファッションショーの手伝いに行った事がきっかけだった。
当時の凪子はまだこの業界の事がよくわかっていなかったので、言われるがままにがむしゃらに動いていた。
そんなある日、信也のファッションショーのモデルが当日急病になってしまいピンチが訪れる。
信也は急遽、モデル経験のある凪子を代役に据えてその危機を乗り越えた。
読者モデルのイベントでショーの舞台に立った経験はあったが、本格的なファッションショーは経験がない。
しかし、当時の凪子は戸崎の命令に従うしかなかった。
ショーが始まる一時間前に簡単な説明を受けただけで、凪子は舞台に立たされた。
しかし、持って生まれた度胸と気の強さで、凪子は見事にモデルをやり遂げた。
戸崎も凪子の肝の座った性格を気に入り、それ以降二人は親しくなる。
そして今では公私ともにざっくばらんな付き合いを続けていた。
信也は、この業界ではかなりのプレイボーイとして知られていた。
華やかな世界に身を置き、独身でイケメンでもある信也は時折テレビ出演を頼まれる事も多い。
その為女性ファンも多く、芸能人と同等の扱いで度々週刊誌を賑わせている。
しかしスクープされる度に、隣にいるのはいつも違う女性だった。
つい先月も、超有名女優と一緒にいる所をパパラッチされたばかりだ。
最近漸くその騒ぎが収まってきたところだ。
そんな今話題の信也に、今回凪子の会社がブランドの監修を依頼した。
普通だったらこんな地味な仕事は信也は受けない。
しかし、どうしてもという凪子からの頼みだったので快く応じてくれた。
そんな信也に対し凪子は感謝の気持ちでいっぱいだった。
凪子は、アシスタントの真野が朝早くから並んで買って来てくれたプリンの箱を手にして、
信也の事務所へ向かった。
事務所のインターフォンを押すと、男性社員が応答する。
「お忙しい所申し訳ございません。マニフィークの朝倉ですが、2時に戸崎先生とお約束をしているのですが…」
「ああ、凪子さん! お待ちしておりました。どうぞ!」
すぐに外扉のロックが解除されたので、凪子は慣れた足取りで中へ入る。
今応答してくれたのはアシスタントの高田だった。
高田は20代の若者で、信也のアシスタントだ。
外扉を開けて中へ入った凪子は、さらに内扉を開けて事務所へ入る。
すると、高田が笑顔で凪子を迎えた。
「高田君こんにちは! これ、みんなで食べて!」
凪子はそう言って、二つあるプリンの箱のうち一つを渡す。
「いつもありがとうございます! あれ? これテレビで話題の?」
「そう…本当に美味しいかどうかは食べて確かめてみて!」
凪子が微笑んで言うと、高田はそこにいたスタッフ達に大声で言った。
「凪子さんにプリンいただきましたー!」
「「「ありがとうございまーす!」」」
スタッフ達は笑顔で嬉しそうに言った。
凪子は皆にペコリとお辞儀をすると、一階の事務所を出て廊下の先にあるエレベーターへ向かった。
戸崎のオフィスは四階建てのモダンな建物で、一階から三階まではオフィス兼作業場。
そして四階が戸崎の自宅となっていた。
三階までは階段を使い、戸崎の自宅へは直通のこのエレベーターを使う。
自宅も仕事場も同じ建物だが、居住スペースのプライベートはしっかりと確保されていた。
表参道から歩いてすぐのこの立地にこの大きさの居を構えるというのは、成功者の証だ。
戸崎は42歳の若さで、既にその成功を手に入れていた。
エレベーターが四階に着くと、凪子は廊下の先にあるインターフォンを押す。
「はい…」
「朝倉です」
「おうっ、来たな」
信也はそう言ってすぐに玄関を開けてくれた。
「いらっしゃい」
「お邪魔しまーす」
凪子は慣れた様子でリビングへ向かう。
人の家なのに、もうすっかりどこに何があるのか分かっている。
「今日はオフィスに出ないの?」
「午後から出るよ。昨日帰りが遅かったんだ…」
「また女?」
「なんだその言い方は! 俺は独身なんだ、自由の身だからいいだろう?」
「はいはい…でもまた週刊誌に撮られちゃうわよ!」
「大丈夫だよ。最近はかなり用心しているからね」
信也はそう言うと、リビングの隅にあるキッチンへ向かう。
室内にはコーヒーの良い香りが漂っていた。
おそらく凪子が来る時間に合わせてコーヒーを準備してくれたのだろう。
凪子はソファーの脇にバッグを置くと、窓辺へ行きレースのカーテンを開けて外を見た。
この地域は高級住宅街なので、低層階の住宅が多く意外と見晴らしが良い。
見慣れた景色を確認すると、凪子はカーテンを閉めてソファーへ戻る。
そこへ信也がコーヒーを持って来てくれた。
「おっと、凪子はミルクがいるんだったな」
と言うと、キッチンへミルクを取りに行った。
信也がミルクを渡すと凪子はそれをコーヒーに入れる。
それをスプーンで混ぜながら、
「ありがとう」
と言い、コーヒーを一口飲んだ。
凪子はコーヒーにはミルクを入れる派だ。
モデル時代の癖で、歯にコーヒーの色素が沈着しないよう常にミルクを入れる。
「美味しい! やっぱり人が入れてくれるコーヒーは美味しいわね」
「なんだ? 旦那は入れてくれないのか?」
「うん。あの人、家事はトイレ掃除と風呂掃除しかしないのよ。それだって私が結婚してやっと躾けたんだから」
「このご時世に随分贅沢な男だなぁ…俺だって簡単な料理くらいは出来るぞ」
「親に甘やかされて育ったのよ。一人っ子だし」
「小さい頃からの躾けって大事だな! 凪子も子供が出来たらちゃんと教育しろよ」
信也はそう言って笑う。
コメント
1件
信也さん優しいなぁ〜いろんな人に対して🤭 でも凪子さんへは愛というか想いを感じる〜だから未だに自由人で結婚を考えれる相手がいない⁉️