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その夜、一ノ瀬俊は南青山のイタリアンの店にいた。
今日はこの店で仕事の打ち上げだった。
デザイナーズビルの最上階にあるこの店は、俊が七年前にプロデュースした店だ。
昼間はホテルにも引けを取らないブランチを提供し、長蛇の列が出来る。
そして夜はNYスタイルのイタリアンが楽しめる店だ。
最上階という立地を生かし、広いルーフバルコニーにもテーブル席を配置している。
東京の夜景を眺めながら食事ができるバルコニー席は、ムード満点で大人気だ。
予約はかなり先まで埋まっており、席を確保するのもなかなか難しい。
俊は現在58歳、職業は飲食店プロデューサーをしている。
飲食店プロデューサーという職業は、店のコンセプトやメニュー、店舗デザイン、そして運営形態等、
店に関わる一通りの事をセレクトし総合的にプロデュースする仕事である。
似たような職種に、飲食店コンサルティングというものもあるが、
コンサルティング業は顧客の希望を聞き入れた上でそのニーズにあったものをいくつか提案し、
顧客に選んでもらうという形だ。
しかし俊がやっているプロデュース業は、最初から最後まで全てをプロデューサーに一任される。
つまり店づくりに関わるすべての決定権はプロデューサーに委ねられる事になる。
この業界の第一人者である俊が手掛けた店は、全て大ヒットを飛ばしていた。
一時期感染症の影響により飲食店の倒産が相次いだ時期があったが、
俊が手掛けた店はほとんど影響を受けずに、常連客等に支えられ順調に経営を続けていた。
売れっ子プロデューサーの俊が手掛けるのは都心にある店がほとんどだが、
時折地方のホテルや有名店、そして時に言は海外からも声が掛かる。
長い間この仕事をしてきた俊には、時代の流れを読むセンスがあり、
蓄積された膨大なノウハウもある。
そんな俊のプロデュースを希望する客は多く、スケジュールは数年先まで埋まっていた。
そして俊自身も、自分でプロデュースした店を都内にいくつか持っている。
その種類は、イタリアンやフレンチ、日本料理店やカフェなど多岐に渡る。
もちろん経営状況はどこも順調で、俊は稼いだ資金の一部を不動産投資にも回しており、
今はその不動産収入だけでも充分暮らしていけるほどだ。
俊は数年後には表舞台から引退しようと考えていた。
60歳を目安に少しずつ店の経営権を譲渡し、
老後は不動産賃貸業を主軸にし、のんびり暮らしたいと思っていた。
これまではずっと仕事中心の人生だった。
俊は若い頃に一度結婚したが、40歳の時に離婚をした。
元妻は、ブティックやセレクトショップを経営するキャリアウーマンだったので、
当時は互いに仕事が忙しく、結婚生活もすれ違いの日々だった。
幸い二人の間に子供はいなかったので、話し合いの結果円満離婚となった。
元妻とは今でも良き友人として良好な関係を続けている。
離婚後の俊は、結婚を前提としない自由恋愛を謳歌していた。
自分が結婚に向いていない事は重々承知していたので、
恋愛の相手にはあえて気軽につき合える相手ばかりを選んできた。
相手が少しでも結婚を匂わせて来たら、その関係はすっぱりそこで終わる。
そういう割り切ったクールな恋愛ばかりしていたので、
女性関係でのトラブルも絶えなかった。
今思い返すと、あの頃は若かったんだなと思える。
しかし60歳を目の前にすると、意識も少し変わってきているような気がする。
上手くは言えないが、これまでのような恋愛だと妙に虚しさだけが募る。
そして無性に癒しが欲しくなる。
心の安らぎや平穏といったものに対する憧れが強くなっているような気がする。
そんな風に思うのも、歳を取ったせいなのだろうか?
だからといって、再婚を望んだり、真剣な付き合いがしたいという感じでもない。
いざ距離を詰めた交際となると、一歩引いてしまう自分がいる。
一度失敗しているだけに、なかなかそこまで踏み込む勇気もなかった。
俊はそんな事をつらつらと考えながら、
グラスに入ったノンアルコールワインを飲み干す。
その時、向かいに座っていた仕事仲間の矢口が言った。
矢口は若手の照明デザイナーだ。
「俊さんがノンアルコールって事は、今日は鎌倉の家に帰るんですね?」
「ああ、最近は週末ごとに帰ってる」
「いいなぁ。やっぱ海の近くは最高でしょう?」
「だな。海まで5分もかからないからね」
「超羨ましいーっす!」
矢口はたまらないといった顔で叫ぶ。
矢口は俊と同じサーファーだった。
俊も若い頃からサーフィンが趣味だった。
一番多忙だった時期は海から足が遠のいていたが、鎌倉に家を買ってからは頻繁に海に入っている。
俊が家を買ったのは、今年に入ってからだ。
その家は、引退後の終の棲家となる予定だ。
鎌倉の地を選んだのは、海が近いというのが一番の理由だが、
他にも色々ある。
海の幸が美味しい事
鎌倉野菜や三浦野菜など、いつでも新鮮な野菜が手に入る事
気軽に飲めるローカル向けの店が多い事
自然豊かな場所であるのに東京へも通勤圏であるなど、理由は色々だ。
その他にも、俊は鎌倉古道の地質や地層に興味があった。
学生の頃から地学や地質学、古生物学や鉱物学に関する分野が好きだった。
地質や鉱物類を分析すれば、その地の太古の昔へ辿り着く。
そこにロマンを感じていた。
歴史ある鎌倉には、切り通しに見られる地層や時折出土する貝化石など、
俊の興味をそそる事例が数多くある。
今はそれらとはまったく縁のない職業に就いているが、
化石収集は学生の頃から現在まで続いている趣味だ。
仕事で地方へ行き化石博物館や鉱物博物館があると、
無理をしてでも必ず寄る事にしている。
俊の青山のマンションには、集めた化石や鉱物が綺麗に飾られている。
女をマンションに呼ぶと、必ずと言っていいほどその石や化石に興味を示し
「これ何?」と質問されるが、
俊が詳しい説明を始めると、どの女も適当に相槌を打って終わりだ。
中には、汚い石を飾って気持ち悪いと言う女もいた。
俊はその時の事を思い出し、思わず苦笑いをした。
コメント
1件
女を部屋に連れて行く時点で趣味の化石を見せていいかくらいは考えないと!「気持ち悪い」なんて言われたら自分も凹むと思うけど⬇️ でも仕事はパーフェクト💯で女に対してもこれからとは違う線引きをしてる辺りで別の良い出会いがありそう✨