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最後の場面で、デシアはサベリオと向き合った。
舞台の上では役のまま。
けれど、それだけでは収まらないものが二人の間にあった。言えなかったこと。遅れて届いたこと。支えてきた時間と、やっと追いついた時間。
雨は少し弱まっていた。
そのぶん、橋の上の気配がはっきりする。雲の流れが速い。どこかで月が動いていると分かる夜だった。
デシアはゆっくり語る。
「春は、急に来ない」
ろうそくの火が揺れる。
「凍えていた場所へ、知らない間に少しずつ音だけ先に来る」
サベリオから目を逸らさず、
「だから、誰かが待っていてくれた場所から、最初にほどける」
その言葉は、役の相手へ向けた独白でありながら、今ここにいるサベリオ自身へも届いていた。
サベリオはその声を受け止める。
もう台本を見る必要はない。見なくても分かる。目の前の人が、これまで黙って飲み込んできたものを、今はちゃんと声にして置いてくれている。
橋の上で、雲が裂けた。
細い月明かりが落ちる。
満ちきった輪の一部が、ようやく見えた。
次の瞬間。
ゴウン――と、深い音が夜の底から立ち上がった。
重く、遠く、けれど確かにここにある音。
深い時計の鐘だった。
橋の上の鉄がわずかに震え、地下避難壕の壁へ響きが滑り込み、客席の胸へ遅れて届く。派手ではない。けれど、聞いた人の中へ静かに沈んで、そこで長く鳴り続けるような音だった。
誰かが息を呑む。
誰かが思わず空を見上げる。
トゥランは涙の顔のまま笑い、ハルティナは両手で口を押さえ、モルリは「鳴った」と言いかけて声にならない。
コスタチンは群衆の端で、何も言わずに帽子のつばへ手を触れた。
それがこの老人なりの万歳だった。
鐘の余韻が残る中、デシアは最後の独白へ入る。
「あなたが守ったものは、ひとつじゃない」
その声はもう、役だけのものではない。
「泣きそうな誰か。帰ってきてもいい場所。笑われても消えなかった夜。私は、その全部に救われた」
わずかに息を詰まらせながら、
「だから私は、ここで、あなたの名前を呼ぶ」
静かな間。
「サベリオ」
役名ではなく、本当の名だった。
客席がどよめくより先に、サベリオの胸の中で何かがほどけた。
彼は前へ出る。
灯りは少しでいい。音も、月も、もう十分だ。必要だったものは、全部ここへ揃っている。
「デシア」
今度は彼が呼ぶ。
「終わったら聞くって言ったけど、たぶんもう聞いてる」
客席の中で、ヌバーが小さく「うわ」と漏らし、ホレに肘でつつかれた。
サベリオは観客の方を振り向く。
橋の下も、橋の上も、皆の顔が月と灯りに薄く浮かんでいた。
「ここは、残したいです」
飾らない声で言う。
「勝つためだけじゃなくて、帰ってきてもいい場所として」
鐘の余韻が、その言葉の後ろに長く伸びた。
そしてデシアは、最後の一行を読む。
「春の音は、誰かが帰ってくる足音にいちばんよく似ている」
暗がりの中、橋の下の舞台は静かに終わった。