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第86話:大和国の年越し前
十二月三十一日。
大和国では“年越し”という言葉はすでに使われていない。
かわりに今日を「安心更新前夜」と呼ぶ。
街の空は湿った冬気に包まれ、
淡緑と灰のライトが巨大ビジョンを照らしていた。
ゆづ(10)は水色の厚手パーカーに灰色のブーツ。
指先の出た手袋から、ホットドリンクの紙カップを握りしめている。
寒さで頬はうっすら赤くなっていた。
隣で手をつなぐ かなえ(32)は、
淡緑のロングコートにモカ色のマフラー。
髪は後ろでひとつに束ね、水色のヘアクリップが耳のあたりで揺れる。
広場にはカウントダウンを待つ人々が列になって並び、
ほとんどの市民が淡緑の帯が入った小さな大和旗を手にしていた。
旗は風もないのに揺れず、まっすぐ前へ向けられている。
紙の端が折れないように、指の力加減までそろって見えた。
街頭ビジョンの下で、群衆は静かに立ち、ただ待っていた。
だがそこに浮かぶのは花火でも数字でもない。
巨大な翡翠核の映像と、大和旗が交互に映される。
その下に浮かぶ「安心価値更新式」の文字。
「ねぇママ、今日はなにをするの?」
「毎年ね、法律をもう一度みんなで聞くの。
安心で新しい一年を迎えるためよ。」
ゆづは意味は全部はわからないけれど、
国全体が同じ呼吸をしているような、静かな圧を感じていた。
23:45 象徴長の登場
ビジョンがゆっくり暗くなり、穏やかな弦楽の音が流れ始める。
象徴長が姿を見せた。
灰寄りの公式衣をまとい、胸元には淡緑の帯。
整えられた髪と、感情を抑えた穏やかな表情で、首都の広場を見下ろしている。
街全体が、吸い込まれるように静まり返る。
象徴長は、低くやわらかな声で語り始めた。
「市民のみなさん。
本年も安心の維持にご協力いただき、心より感謝します。」
ゆづは思わず背筋を伸ばし、口をつぐむ。
象徴長は透明なパネルを手に取り、
そこから法律文が淡く立ち上がるように表示された。
23:50 法律の読み上げ
象徴長は、はっきりとした口調で読み上げていく。
「安心価値標準化法律。」
それだけで、広場の空気が一段沈む。
旗を握る指が、わずかに固くなる音がした。
「安心とは、計測可能な国家資源である。
市民の体温、心理反応、行動ログから安心値を算出し、
翡翠核がこれを常時管理する。」
画面に淡緑の文字が流れ、要点がカタシンで補足される。
「市民の権利、義務、社会階層は、安心値により段階的に変動する。」
ゆづは無意識に自分の手袋の隙間を見た。
指先が冷えている。それさえ、どこかへ送られている気がした。
象徴長は、次の行に視線を移す。
「続けて、第11章。
災害、事故、防犯のための、安心常備法。」
群衆の大和旗が、同じ角度で持ち直される。
合図のように、旗の棒が衣服に触れて小さく擦れた。
「すべての住居と学校、主要施設には、
揺れ検知装置と津波アラームの設置を義務とする。
大和国民は、生涯を通じて、地震と津波への備えを行う。」
広場のスピーカーが、同じ抑揚で復唱する。
揺れが来ても、津波が来ても、ヤマトは必ず守る。
幼い子どもたちの中には、条件反射のように口の中で同じ言葉を動かす子もいた。
「火災について。」
象徴長は声の調子を変えないまま読み続ける。
「すべての住居や建物に火災報知機と自動通報機能を備え付け、
火の管理を徹底することを義務とする。
火災の鎮圧と消火は国軍が一元的に行う。」
ビジョンには訓練映像が映る。
淡い緑の隊服の街守隊が、建物の前で合図を出し、
無人機が低く旋回し、熱の輪郭だけが淡い色で重ねられる。
その中央に「守られた火」の文字が静かに乗った。
「防犯について。」
「すべての住居、店舗、公共施設には防犯カメラを設置する。
映像は、安心と平和、防犯のために常時記録され、解析される。
死角を意図的に作る行為は、心理揺らぎ行為として通報対象となる。」
ゆづは思わず、近くの電柱に取り付けられた小さなレンズを見上げた。
そこにも、淡緑の小さなランプが点いている。
ランプの点滅が、広場の呼吸に合わせているように見えた。
象徴長は、ひと息も乱さず続けた。
「続けて、第12章。
安心センター統合法。」
ゆづの横で、かなえの握る手がわずかに強くなる。
かなえのモカ色のマフラーが、息で少し膨らんで、また戻った。
「安心センターは、医療、行政、避難、心理調整、記録、死亡処理を
一体で運用する国家拠点として定義する。
各生活圏に同一規格で設置し、国はこれを運用する義務を負う。」
ビジョンには、安心センターの外観が映る。
淡緑と灰でまとめられた角ばった建物。
入口はひとつに見えるのに、案内表示がいくつも流れ、
人の流れだけが自然に分岐していく映像だった。
「市民は、体調異常、心理揺らぎ、災害警報、家庭内事故、死亡、失踪疑い、
火災、犯罪被害申告、保護要請の発生時、安心センターの指示に従い利用する義務を負う。」
広場の端で、係員のような制服の人が静かに歩く。
淡緑の腕章が揺れないように、動きが小さい。
「安心センターの建物内外において、
体温、心拍、発汗、血流傾向、視線、動線、滞在時間、会話傾向は自動記録される。
記録は翡翠核へ統合され、安心値算出に使用される。」
群衆の中に、息を飲む気配が走る。
でも誰も顔に出さない。
旗だけが、同じ高さで持たれたまま揃っていた。
「そして、死亡処理。」
象徴長の言葉は淡々としているのに、広場の温度が少し下がった気がした。
「死亡確認は街守隊が行い、死亡ログは即時登録される。
遺体は全て安心センターへ搬送し、
安心センター以外でのセイレン処理、保管、立ち会いを禁じる。」
ビジョンに、地下の導線図が映る。
市民が使う明るい通路とは別に、
表示のない搬送線が細く伸び、処理区画へつながっている。
「安心センターは地下処理区画において、
セイレン法に基づく分解、精製、水化、都市循環接続を実施する。
遺体の一部、記念物としての保管、撮影、持ち出しを禁じる。」
かなえは目を伏せたまま、ゆづの指を包み直した。
ゆづは紙カップを両手で抱え、温かさを逃さないようにした。
「遺族へ交付されるのは、還安報告書、安心ポイント、生活案内の三点を標準とする。」
象徴長は、そこで一度だけ間を置いた。
広場の空気が、待つことに慣れた形で止まる。
「続けて、第26章。
カタシン文化統合法。」
ゆづは、言葉の響きだけで胸が少し軽くなるのを感じた。
かなえの指先が、ほんの少しだけ緩む。
象徴長は淡々と、だが言い切るように読む。
「カタシンは、国家が指定する安心入力である。
市民の購買、移動、学習、申請、連絡は、
原則としてカタシンを介して行う。」
画面の下部に、カタシンの短い補足が流れる。
安心のことば。つながる。守られる。そろう。
「カタシンによる入力は、
個人の表現ではなく、生活の整流である。
統制外の入力形式は、心理揺らぎとして記録される。」
群衆の中で、誰かの端末が一度だけ光った。
通知ではない。確認でもない。
ただ、同期の合図みたいに。
「カタシンは、理解のために存在しない。
生活を同じ速度に揃えるために存在する。」
ゆづは、その意味が分かった気がして、分からないまま、安心した。
象徴長は、ようやく顔を上げる。
「安心価値標準化法律。
第11章、安心常備法。
第12章、安心センター統合法。
第26章、カタシン文化統合法。
以上が、大和国の安心を支える中心法律です。」
広場にはだれひとり声を上げない。
吐く息だけがかすんで揺れ、視線だけがビジョンに縫い付けられている。
23:59 新施行法律の読み上げ
象徴長が、別の透明パネルを開いた。
「続いて、来年より施行される法律の一部を読み上げます。」
ゆづはホットドリンクを握り直し、少しだけ背伸びをして画面を見上げた。
新しい項目が、淡緑の文字で並ぶ。
「市民心理安定化指標の自動更新。
体温、発汗、血流の揺らぎが既定値を越えた場合、
個人端末へ安心補助映像を自動送信し、
心理指数を国家基準へ近づける。」
広場のあちこちで、ヤマホを持つ手がわずかに動く。
「夜間サーモ巡回の強化。
夜間ドローンによる体温スキャン区域を従来の二区画から四区画へ拡張し、
睡眠時の都市温度をより安定させる。」
「言語誤用記録の高速化。
ひらがな、漢字、カタシンの混在および誤用を端末内で即時解析し、
心理揺らぎとしてその場で記録する。」
「安心公園・第二期整備。
旧来の墓地に残る個別墓所の最終移設を完了し、
セイレン葬への移行を完全標準化する。」
「市民年齢概念の簡略化。
誕生日の廃止運用を完了し、
年齢を安心段階によってのみ分類する。」
象徴長は、最後にわずかに目を細めた。
「来る一年も、みなさんが安心の中で過ごせることを願います。」
広場の上空で、翡翠核の映像が少し明るさを増した。
カウントダウン 大和式の年明け
象徴長の背後に、翡翠核の立体映像が大きく映る。
その手前に、カタシンの数字が浮かび上がる。
10
9
8
7
ゆづは、かなえの手をぎゅっと握った。
「ママ……」
声にならない声を飲み込みながら、数字を目で追う。
3
2
1
安心更新完了
淡緑の光が、街全体をふわりと包み込んだ。
人々のヤマホが一斉に震え、
新安心値と今年の義務一覧が通知される。
画面には、自分のサーモ履歴と、
今年推奨される安心行動が、静かに並んでいた。
「ママ……“あけまして”でいいの?」
かなえはモカ色のマフラーを整えながら、ゆづの肩に手を置いた。
「大和国ではね、“安心しました”って言うの。」
ゆづは、少しだけ息を吸い込んでから、小さな声でまねをした。
「……安心しました。」
その言葉が、冷たい冬気の中に溶けていく。
街は、花火も鐘もないまま、
静かに「新しい安心」の一年へ滑り込んでいった。