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第87話:安心センター
朝の安心センターは、外より少しだけ低い温度に保たれている。
冷たくはないが、あたたかくもない。
身体が判断を始める前に、感覚だけが先に落ち着く。
入口を抜けた瞬間、床の光が足元を導いた。
案内板は目線の高さにない。
壁は灰色、ラインは淡緑。
人は考えず、流れに乗る。
受付、医療、心理、手続、処理。
順番は覚えるものではなく、
慣らされるものだった。
ロビーに立っていたのは、肩幅の狭い女性。
薄いモカ色のコートに、少し長めの袖。
髪は後ろで低く結ばれ、耳元に何も飾りはない。
足元は歩きやすそうな靴で、音を立てずに床を踏んでいた。
隣には、背の高い男性。
灰のジャケットの内側に、わずかに水色の布がのぞく。
表情は整っているが、視線が落ち着かない。
視線だけが、床の光から一瞬ずれる。
受付の職員は淡緑の制服。
短く整えられた髪。
端末を一度なぞるだけで、来訪理由が確定する。
体調確認。
心理調整。
生活更新。
声は求められない。
説明もない。
医療区画では、低いパネルが空間を分けている。
完全に隠される場所はない。
誰かの計測音が、必ずどこかで響いている。
男性は計測台に立つ。
上着を脱ぐ指が、一瞬だけ止まった。
体温、心拍、血流。
数値は本人には表示されない。
隣で女性も同じ工程を受ける。
端末が淡く光り、すぐに消える。
問題は表示されない。
問題がないのではなく、処理されるからだ。
心理区画に入ると、椅子が規則的に並んでいる。
壁一面に映るのは、揺れない水面と、一定の明るさ。
時間の感覚が曖昧になる映像。
問いは短い。
最近、落ち着かない映像を見たか。
眠りは途切れていないか。
人と距離を取りたくなることはあったか。
男性は一つ目の問いで、少しだけ間を空けた。
その瞬間、端末が静かに振動する。
安心補助、追加。
画面に、短い文が表示される。
大丈夫です
今は大丈夫に戻しています
男性は、息を吸って吐いた。
胸の奥にあった違和感が、言葉になる前に溶けていく。
ここでは、
大丈夫かどうかは聞かれない。
大丈夫じゃない時に、
大丈夫するだけだ。
女性の端末にも、同じ振動が走る。
彼女はそれを見て、安心したようにうなずいた。
理由は分からないが、理由は必要ない。
手続区画では、生活の更新が行われる。
市民ランクに応じた配給。
移動できる区域。
今月の協賛行動。
同意は表示される。
拒否は表示されない。
処理区画の前だけ、空気が少し変わる。
厚い扉の向こうから、低い振動が伝わる。
音はない。
匂いもない。
ここでは、
悲しむ前に終わる。
考える前に流れる。
安心センターは、
何かを癒す場所ではない。
街に持ち帰れない揺れを、
ここで大丈夫に変える場所だ。
外に出ると、街はいつも通りだった。
人は歩き、話し、働く。
誰も、さっきまで自分が大丈夫じゃなかったことを覚えていない。
大和国では、
大丈夫は感情ではなく、
処理結果として配布される。
だから街は今日も静かだ。
静かになるように、
すべてが設計されているから。