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689
第4話「人格裁判」
法廷の朝は、思ったより静かだった。
廊下には足音が並び、書類の束が運ばれ、待合席では関係者たちが自分の人格タグを確認している。
今日の表人格。
職務人格。
証言人格。
待機人格。
誰もそれを珍しがらない。
この社会で、ひとりの中に複数の人格がいることは、朝に靴を履くことと同じくらい当たり前だった。
ただし、法廷では少し違う。
誰でも自由に交代していいわけではない。
裁判官は判定人格。
検察官は追及人格。
弁護士は弁護人格。
それぞれ、仕事を担う人格を前に出し、ほかの人格は奥で待つ。
我慢する。
口を出したくても、言葉を飲む。
怒りたくても、息を整える。
泣きたくても、記録が終わるまで待つ。
その我慢が、判断を支えていた。
マサコは裁判官席に座り、手元の人格タグを確認した。
現在の表人格 判定人格
待機 共感人格 厳格人格 雑談人格
雑談人格が奥で何か言いたそうにしている。
マサコは胸の奥で、静かに指を立てた。
今はだめ。
法廷の右側では、検察官のキリヤが資料を整えていた。
濃いグレーのスーツの袖口を直し、細い付箋を一枚ずつ並べている。
彼のタグには、追及人格と表示されている。
左側では、弁護士のナツメが被告へ小声で話しかけていた。
ベージュのジャケットの胸元には、小さな人格制御バッジ。
弁護人格が前に出ている証だった。
被告席に座るカズマだけは、タグが忙しかった。
代表人格
言い訳人格
反省人格
強がり人格
代表人格
言い訳人格
表示が、落ち着かない信号みたいに変わっている。
ナツメが低い声で言った。
「カズマさん、なるべく代表人格で答えてください」
カズマはうなずく。
「はい」
次の瞬間、強がり人格が顔を出した。
「まあ、余裕っすけど」
ナツメの目がすっと細くなる。
「余裕ではありません」
反省人格がすぐ出る。
「すみません」
言い訳人格が続く。
「でも本当に、あれは流れで」
ナツメは深く息を吸った。
「流れを説明するのは、私の質問の後です」
マサコはそれを見て、槌を軽く鳴らした。
「開廷します」
空気が一段だけ締まる。
傍聴席の人々も姿勢を正した。
何人かの人格タグが、傍聴人格へ切り替わる。
キリヤが立ち上がった。
追及人格の声は、硬すぎず、やわらかすぎない。
まっすぐ前へ進む声だった。
「被告人カズマは、コンビニ店内にて会計前の商品を持ち出した疑いがあります」
カズマの肩が跳ねる。
反省人格が前に出かけ、言い訳人格が押し戻す。
口が開きそうになる。
ナツメが机の下で、そっと手を横に振った。
まだ。
カズマは歯を食いしばり、黙った。
三秒。
四秒。
五秒。
マサコはそれを見ていた。
被告以外の者は、自分の職務人格を前に出している。
キリヤの熱血人格は奥で燃えているが、追及人格が手綱を握っている。
ナツメの同情人格は身を乗り出したがっているが、弁護人格が言葉を選んでいる。
マサコ自身の共感人格も、カズマの落ち着きのなさを見て胸を痛めている。
けれど、判定人格は視線をそらさない。
ひとりだけで決めるより、いい。
奥にいる人格たちが、静かに別の角度を照らしている。
ただし、前に出る順番は守る。
それが法廷の呼吸だった。
証拠映像が示された。
店内カメラの映像。
カズマが商品棚の前で迷っている。
手に取る。
ポケットに入れる。
店を出る。
傍聴席がざわめく。
カズマのタグが震えた。
言い訳人格 表出
「ち、違うんです。あの時、財布を出そうとして、手が混乱して、それで」
ナツメがすぐに立った。
「被告人、落ち着いてください」
カズマの顔が変わる。
反省人格。
「すみません。勝手にしゃべりました」
強がり人格。
「でも、そんな大事件みたいに言わなくても」
代表人格。
「黙ります」
また反省人格。
「ほんとにすみません」
キリヤの奥で、熱血人格が前に出かけた。
顔つきが少し鋭くなる。
だが、追及人格がそれを抑えた。
声は乱れない。
「被告人には発言の機会があります。今は質問に答えてください」
マサコはキリヤを見た。
いい制御だった。
ナツメもカズマに耳打ちする。
「今は、聞かれたことだけ答えます」
「はい」
「どの人格が出ても、先に私を見てください」
「はい」
「返事は一回で大丈夫です」
「はい、はい、あっ」
「一回で」
「はい」
傍聴席から小さな笑いが漏れた。
マサコは槌を持ち上げる。
笑いはすぐに止んだ。
裁判は続いた。
キリヤが質問する。
ナツメが補足する。
カズマが答えようとするたび、人格が揺れる。
「商品をポケットに入れた時点で、支払う意思はありましたか」
カズマの代表人格が口を開く。
「ありました」
言い訳人格が出る。
「たぶん」
反省人格が続く。
「でも、結果的に払ってません」
強がり人格。
「たかが一個ですけど」
代表人格が戻り、血の気を引かせた。
「今の取り消せますか」
ナツメが小さく首を振る。
「記録には残ります」
「うわ……」
キリヤの眉がわずかに動く。
追及人格は淡々と続けた。
「では、支払う意思があったという説明と、たかが一個という発言について、どちらが当時の認識に近いですか」
カズマの中で、明らかに会議が起きた。
目が右へ動く。
左へ動く。
唇が震える。
マサコは待った。
法廷では、沈黙にも意味がある。
人格が多い者にとって、沈黙は空っぽではない。
内側で椅子が引かれ、誰かが手を挙げ、誰かが反対している時間だ。
やがてカズマはうつむいた。
反省人格が前に出ていた。
「その時は、軽く考えていました。あとで払えばいいとか、見つからなければいいとか、そういう気持ちがありました」
法廷が静かになる。
言い訳人格は出てこなかった。
強がり人格も出てこなかった。
ナツメの同情人格が奥で泣きそうになっている。
けれど弁護人格は、きちんと立ち上がった。
「被告人は事件後、店舗へ謝罪し、商品代金を支払っています。また、人格交代時の衝動記録を提出し、今後は会計前の商品を持つ際にアラートが鳴る設定を行っています」
キリヤが資料を見る。
「その点は確認しています」
マサコはうなずいた。
被告以外の人格たちは、よく我慢していた。
検察側の怒り。
弁護側の同情。
裁判官の厳しさ。
裁判官の共感。
どれも必要だった。
けれど、全部が同時に前へ出たら、法廷はただの口論になる。
我慢しているから、判断に使える。
奥にいるから、支えられる。
マサコは自分の内側で、厳格人格の声を聞いた。
規則は規則。
共感人格が言う。
でも、戻ろうとしている。
雑談人格が小さく言う。
それにしても、たかが一個発言は下手すぎる。
マサコは雑談人格を奥へ押し戻した。
審理の終盤。
カズマに最後の発言機会が与えられた。
ナツメがそっと言う。
「今度は、代表人格で話しましょう」
カズマはうなずく。
目を閉じる。
胸に手を置く。
タグが震える。
言い訳人格 待機
強がり人格 待機
反省人格 待機
代表人格 表出
カズマは顔を上げた。
落ち着きはなかった。
でも、逃げる目ではなかった。
「すみませんでした。自分の中で、軽く考える人格を止められませんでした。でも、止められなかったことも、自分の責任です」
声が少し震えた。
それでも続けた。
「次は、会計前の商品を持ったら、アプリの警告を必ず出します。店にも、家族にも、確認してもらいます」
強がり人格が一瞬出かけた。
唇がゆがむ。
けれど、カズマは手を握りしめた。
「あと、たかが一個って言ったのは、取り消せないけど、間違ってました」
法廷は静かだった。
マサコは、手元の記録を見た。
キリヤは黙っている。
ナツメも黙っている。
それぞれの内側で、別の人格たちが何かを言っているのがわかる。
けれど、表に出ている人格は職務を守っていた。
判決の時間になった。
マサコはゆっくりと言葉を置いた。
「被告人の行為は軽く扱えるものではありません」
カズマが息を止める。
「商品を持ち出した事実は明らかです。人格が交代したことは、行為そのものを消す理由にはなりません」
ナツメの目が少し伏せられる。
キリヤは動かない。
カズマのタグが、反省人格へ揺れかける。
「ただし」
マサコは続けた。
「被告人は事後に謝罪と弁済を行い、再発防止のための設定も済ませています。内側の人格を理由に逃げるのではなく、管理するための行動を始めています」
カズマの肩が少し下がった。
「よって、本件については罰金刑とし、あわせて三か月間の人格行動記録提出を命じます」
槌が鳴る。
音は短かった。
けれど、法廷の隅まで届いた。
カズマはしばらく動かなかった。
次に、反省人格が前に出た。
「ありがとうございました」
強がり人格が出かけて、すぐ奥へ戻る。
言い訳人格も黙っている。
代表人格が、最後に小さく頭を下げた。
閉廷後。
キリヤが資料をまとめる。
ナツメがカズマに何かを説明している。
カズマは何度もうなずいていた。
マサコは裁判官席で、少しだけ息を吐いた。
その瞬間、雑談人格が出かけた。
今日も大変だったね。
マサコは内側で少し笑った。
本当にね。
法廷を出ると、廊下でキリヤとナツメが並んでいた。
キリヤのタグは、追及人格から代表人格に戻っている。
ナツメも弁護人格から代表人格へ戻っていた。
キリヤが言った。
「被告人、途中はどうなるかと思いました」
ナツメは苦笑した。
「うちの同情人格が三回くらい前に出ようとしました」
「こちらの熱血人格もです」
マサコはうなずく。
「我慢できる人格がいるのは、強いことです」
キリヤが少し考える。
「被告人には、それがまだ難しい」
ナツメは廊下の先を見た。
「だから記録提出ですね」
「ええ」
マサコは静かに言った。
その時、奥の方でカズマが立ち止まっていた。
彼はスマホを開き、人格管理アプリを操作している。
画面には、新しい予定が入っていた。
会計前アラート
商品保持確認
同行人格 反省人格
カズマは画面を見て、小さくうなずいた。
その顔は少し疲れていた。
けれど、どこか軽くなっていた。
マサコの共感人格が、奥で静かに息をつく。
厳格人格は、記録を見直せと言う。
雑談人格は、昼食のことを考え始める。
マサコは三つとも聞いた。
どれも無視しない。
どれもすぐには出さない。
廊下の窓から、午後の光が差し込んでいた。
法廷の中では、いろいろな人格が我慢した。
我慢したからこそ、言葉は荒れなかった。
我慢したからこそ、誰かひとりの勢いだけで決まらなかった。
ひとりぼっちでは届かない角度がある。
複数いるから、迷う。
複数いるから、止まれる。
複数いるから、別の見方を残せる。
マサコは法服の袖を整えた。
次の裁判まで、あと十五分。
胸元のタグが震える。
雑談人格 休憩希望
共感人格 お茶希望
厳格人格 次資料確認希望
判定人格 調整中
マサコは少しだけ口元をゆるめた。
「まず資料確認。それからお茶」
奥で、雑談人格が不満そうにした。
カズマが廊下の向こうで、もう一度頭を下げた。
マサコは静かにうなずく。
裁判はコントみたいに見える時がある。
人格が揺れ、声が変わり、言葉が横道にそれる。
それでも、ふざけているわけではない。
みんな、自分の中の誰かを抱えながら、なんとかまっすぐ座っている。
その姿は少しおかしくて、少し真剣で。
この社会では、たぶんそれが普通だった。
マサコは次の記録を手に取り、法廷へ戻った。
奥の人格たちが、それぞれの椅子に座る気配がした。
前に出るのは、ひとり。
支えるのは、全員。
槌を握る手は、さっきより少しだけ確かだった。
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