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翌晩、シェルターの入口に立ったパルテナを見て、ヌバーはわざと大げさに後ずさった。
「来た。昨日の駅前ポスター改め、橋のたもとの失恋女優」
「失恋はしてない」
パルテナが即座に返す。
「じゃあよかった」
ヌバーはほっとしたふりをした。
「別件で泣いてたのか」
「うるさい」
やり取りのテンポが前より自然で、モルリが口元を押さえて笑う。ホレは警戒半分、観察半分で椅子を一つ出した。
デシアが静かに聞く。
「どうしたの」
パルテナは数秒迷ったあと、視線を逸らさずに言った。
「一回だけ手を貸して。台詞の磨き直し。私、もう、自分の言葉の置き方だけで勝てる気がしない」
橋の下がしんとする。
誰かに頭を下げるのが得意な人ではない。その不器用さを皆わりと知っている。だからこそ、今の一言がどれだけぎこちなくて本気かも、同じくらい伝わった。
デシアはすぐには答えない。相手の顔をちゃんと見て、そこに芝居ではない震えがあるか確かめるみたいに黙る。
やがて頷いた。
「いいよ」
パルテナの肩から、見えない力が少し抜けた。
机に台本が広がる。『春の音』の後半、まだ角度の定まっていない台詞が並ぶ頁だ。デシアが書き、サベリオが読んできた言葉へ、パルテナが外側から手を入れる。妙な組み合わせなのに、不思議と喧嘩にならない。
「この一文、綺麗すぎる」
パルテナが指さす。
「綺麗って、たいてい逃げ道あるから」
デシアが考え込む。
「代わりに何を置く?」
「諦めるふりをしてる人の言い方」
パルテナは自嘲気味に笑った。
「私、そこだけは上手いから」
サベリオが思わず口を挟む。
「でも、最後は諦めてない方がいい」
パルテナが彼を見る。
「どうして」
「この芝居、帰る場所の話だから」
サベリオは台本へ目を落とした。
「帰れないって言い切ると、橋の下が閉じる」
その一言に、デシアの目が細くなる。何か見つけた時の顔だった。彼女はすぐ鉛筆を走らせ、文末を直す。逃げ切らない。けれど、簡単にも救わない。ぎりぎりの位置に言葉が置き直されていく。
ジャスパートは横で録音機を回していた。
「今の会話、使えるな」
「勝手に素材にしないで」
パルテナが言う。
「もうしてる」
「早い」
小さな笑いが起きる。
しばらくして、デシアが直した一節を読み上げた。パルテナは腕を組んだまま聞いていたが、途中でその指先がほどける。次の一文で、はっきり息を呑んだ。
「……それ」
彼女は声を失いかける。
「それ、ずるい」
「褒めてる?」
モルリが聞く。
パルテナは返事の代わりに、台本を奪うように持って、自分の声でその台詞を読んだ。最初の一行はいつもの強い置き方だった。だが二行目で急に掠れる。三行目では、言葉が胸のどこかへ沈んだまま出てこない。
橋の下が静かになる。
パルテナは台本を下ろした。目元が少しだけ熱を持っている。
「……ほんとに震えるんだ」
彼女は小さく言った。
「こういう台詞、読む方が」
デシアはその顔をまっすぐ見た。
「だったら、そこは本物だよ」
誰かを刺すためではなく、自分の奥を震わせるための言葉。
パルテナはたぶん初めて、その重さを正面から受けた。
その夜の稽古が終わる頃には、台本の頁のあちこちに三人分の筆跡が混ざっていた。書いた人、読んだ人、別の場所から斬りこんだ人。立場の違う手が重なって、少しずつ一つの流れになる。
帰り際、パルテナは入口で立ち止まる。
「一回だけのつもりだった」
彼女は背を向けたまま言う。
「でも、これ、最後まで見たい」
モルリがにやりとする。
「ほら来た。もう片足入ってる」
パルテナは振り返らなかった。
けれど、その耳が少し赤いのを、橋の下の皆はちゃんと見ていた。