その頃、秘書室内にはコーヒーの良い香りが漂っていた。
「奈緒ちゃん、とりあえずコーヒーを飲んで落ち着こっか」
さおりが淹れたてのコーヒーを持って来たので、三人は丸テーブルを囲みながらとりあえずコーヒーを一口飲む。
温かな飲み物が喉を潤すと、奈緒は漸く落ち着きを取り戻す。
「それにしてもあの突拍子もない案は深山さんの思いつきなのかな?」
「そうだと思います。私も突然でびっくりしました」
「でも名案ですよね。奈緒ちゃんがCEOの恋人ならもう誰も手出し出来ないですから」
「まあそうね、つまり奈緒ちゃんはこの先安泰って事になるわね」
「ただもし奈緒ちゃんが嫌ならちゃんと伝えた方がいいよ。こんなの無理してやる事じゃないから」
「はい……でも色々と考えてみたらそんなに悪い話じゃないかなって……」
「え? そうなの? でもさぁ、漫画とかでよくある『偽装恋人』だよ? 今は大丈夫でも今後もし奈緒ちゃんに好きな人が出来たら困るんじゃない?」
「そうそう、この先どんないい出会いが待っているかわからないんだから、あまり無理しない方がいいかもよ?」
「その心配はないです。私、もう恋愛は懲り懲りですから」
「今はそうでもさぁ、時間が経てばまた考えも変わるかもしれないし」
「その時になったら、また考えます。それにこういうの、深山さんにとっても都合がいいらしいんです」
「えっ? どういう事?」
「ほら、深山さんって女性からよく電話がかかってくるじゃないですか」
そこでさおりがニヤリと笑った。
「なるほどね~そういう事かぁ」
「あーあれか。深山さん宛てによく電話がかかってくるもんねー。でもさ、アレ何でか知ってる?」
恵子の言葉にさおりが反応する。
「会社に電話がかかってくる理由?」
「そう。深山さんて、女性には携帯の番号を絶対に教えないのよ」
「え? そうなんだ?」
「そうなんですか?」
「そう。だから彼女達はわざわざ会社にかけてくるの。でもって、私達がそれを蹴散らす役目をさせられてるって訳!」
「たしかに! 深山さんって女性からの私的な電話に絶対出ないよねー」」
「でしょ? わずらわしいんですよ、きっと」
「なるほどね」
その時奈緒は、先日省吾と携帯の番号を交換した時の事を思い出していた。
(あの時はあっさり交換したのに? あ、そっか。あれは私が恋愛対象じゃないからなんだ)
奈緒はそんな風に思う。
そこでさおりが言った。
「つまりそういう事か! 奈緒ちゃんを守る一方で、自分の虫除けも兼ねてるのね。こういうのを何て言うんだっけ?」
「「一石二鳥!」」
奈緒と恵子が同時に言ったので、三人が笑う。
「つまり互いに相手を利用するウィンウィンな関係ってやつですね? 持ちつ持たれつ的な?」
「うん。でも奈緒ちゃんそれで本当にいいの?」
「はい。もう恋愛云々は懲り懲りなので、私にとっても好都合かもしれません。昔だったらこんな突拍子もない事を引き受けるなんてなかったと思いますが、何でだろう? 私、少し吹っ切れたんでしょうか?」
「吹っ切れたのはいい事よ~~~!」
「つまり奈緒ちゃんは前を向いて歩き始めたって事なんだね!」
「そうね……そう思えるならアリかもね」
「はい……」
「奈緒ちゃんの新しい出発かぁ。よーし、コーヒーで乾杯だー!」
恵子がニコニコしてマグカップを持ち上げたので、三人はカップをカチンと鳴らす。
そしてコーヒーを飲み終えた三人は、笑顔でその日の仕事を始めた。
午後になると奈緒の携帯にメッセージが届いた。省吾からだ。
省吾は今都内の取引先へ向かっているので、出先から送って来たようだ。
【今週はスケジュールがタイトで明後日しか時間が取れないから、明後日の夜に食事でもどう? 例の件の打ち合わせもしたいし】
奈緒はすぐに返事を送る。
【承知しました】
【じゃあ詳細はまた連絡します】
打ち合わせと書いてあるが、一体どんな打ち合わせなのだろうか?
これから『偽装恋人』を演じる為には、相手の事を多少知っておかないとならない。
そういう意味での打ち合わせなのだろうか?
その時奈緒の脳裏には、テレビドラマにあるようなお見合いの場面が浮かんできた。
(ご趣味は? とか聞けばいいのかな?)
奈緒は思わずクスッと笑う。
その日仕事を終えた奈緒は、勇気を出して一人でエレベーターへ乗り込んだ。
朝礼の前までは常に好奇の目を向けられていた奈緒だったが、朝礼以降は一切そんな事はなくなった。
むしろ今までの好奇心に満ちた視線はすっかり消え去り、代わりに羨望の眼差しが奈緒に降り注ぐ。
『深山省吾の恋人』として認定された奈緒に対し、特に女子社員達からの憧れのような視線が飛んでくる。
(彼の一言で、こんなにも状況がガラッと変わるものなのね……)
奈緒は改めて省吾の影響力に驚いていた。
ドアが閉まるとエレベーターはすぐに39階で停まった。そこで一人の男性社員が乗り込んで来る。
その男性は、奈緒が入社初日にエレベーターで一緒になった、茶髪にピアスの若手エンジニアだった。
たしか人事部長の杉田が『井上君』と呼んでいた気がする。
井上は奈緒に気付くとペコリと挨拶をした。
「お疲れっす」
「お疲れ様です」
「噂の標的になって大変でしたね」
「はい、お騒がせしてすみません」
「いえいえ、謝る事なんてないっす。それに俺も昔同じ目にあったんで」
「えっ?」
「朝礼で言ってたでしょ? 数年前にも同じような事があったって」
「ああ…あれは井上さんの事だったんですか?」
「そうです。俺も当時は入社したてで、いきなりで参ったっすよ。あれっすね……『出る釘は打たれる』ってやつ」
そこで奈緒がクスッと笑う。
「『出る杭は…』ですね」
すると井上は頭を掻きながら恥ずかしそうに微笑む。
「アハッ、俺、理数系はバッチリなんすけど、国語はてんでダメで……」
「フフッ、大丈夫ですよ、私もたまに間違えますから。それに井上さんはエンジニアでしょう? 凄いです」
「いえいえ、単にオタクなだけです」
「それでも凄いです」
奈緒が褒めると井上は更に照れてはにかむ。
そして奈緒にこう言った。
「安心して下さい。うちの会社の上層部は信頼出来る人間ばかりですから。それだけは俺が保証します。この会社はちゃんと社員を守ってくれますよ」
井上の言葉を聞いて、奈緒は心の中がジーンと熱くなる。
「はい……ありがとうございます」
「あっ、でも麻生さんなら、何かあれば深山さんに直接言った方が早いっすね」
井上はからかうように言う。その笑顔はチャーミングだった。
「ご心配ありがとうございます」
奈緒も笑顔で返す。
その時一階に到着したので、二人はエレベーターを降りた。
「じゃあお先っす」
「お疲れ様でした」
井上は手を上げると奈緒とは反対方向へ歩いて行った。
(フフッ、私よりも若いのに心配してくれて……優しいのね)
奈緒が笑顔で空を見上げると、ビルの隙間に細い月が浮かんでいた。
オレンジ色に輝く月は、今にも建物の向こうへ沈もうとしていた。
(今日のお夕飯は何にしようかな?)
奈緒はそう思いながら、久しぶりにスッキリした気持ちで駅への道のりを歩き始めた。
コメント
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糠に杭 この杭抜き、杭引き抜きにくい いかなごの杭煮 焼けぼっ釘には火がつきやすい 道頓堀のくぎだおれ人形 わが生涯に一片の釘なし あれっ。おいら、文系なのに国語ができないぞ。
省吾さんったら打ち合わせという名のおデートしたかったのね😂💕 社員を大切にできる上層部がいるってなんかジ~ンと来ちゃう。井上さんがそれを証明してくれたね🤭 奈緒ちゃんが省吾さんを見る目がいい方に変わっていくといいなぁ( *´艸`)フフフ
奈緒ちゃんの天然ぶりというか勘違いというか、これからの展開について行けるのか心配です(奈緒ちゃんが) 井上くんもしっかり登場して嬉しいです。 重要なメンバー😆