翌週、葉月は仕事帰りに買い物をしてから家路に着いた。
電車を降りて駅を出ると、いつものように坂道を上り始める。
その時、ふとあることを思い出した。
この坂道で、葉月が落としたオレンジを、賢太郎に拾ってもらったあの日のことだ。
(なんで急に思い出すの? もう二度と会うこともないのに……)
葉月は慌てて頭の中から賢太郎を追い出すと、坂道を上り続けた。
自宅手前にある芹沢家所有のアパートの前を通りかかった時、突然101号室のドアが開いた。
中からは、入居者の水島莉々子(みずしまりりこ)が出て来た。
莉々子は、夫の雅也(まさや)とこのアパートで暮らしている。
「葉月ちゃん、お帰りー」
「莉々子さん、ただいま」
莉々子は38歳で、葉月よりも一つ年上だった。
サーフショップでサーフィンのインストラクターをしている莉々子と葉月は、たまに家を行き来してお茶をする仲だ。
「ちょうど良かったー。実はね、最近ドアを開けると変な音がするのよ。これってどうやったら直るのかな?」
莉々子がドアを開け締めしてみせると、たしかに異音がした。かなり不快な音だ。
「あ、本当だ。結構うるさいねー」
「でしょう? それにほら、お隣の宮崎さん、看護師さんで夜勤があるじゃない? だからこの音で起こしちゃったら申し訳ないなーって思って。うちの旦那に言ったら、油をつけたら直るんじゃないかって言ってたけど、そういう類の油ってうちにはなくてさ。で、今ちょうど葉月ちゃんに相談しに行こうと思ってたの」
「すみません、うちのアパート古いから、あちこち不具合があって……」
「ううん、それはいいのよ。このシャビーシックな雰囲気が気に入って住んでるんだから」
「そう言っていただけると救われます。でも、ドアにつける油かぁ……どういうのだろう? もしかしたら父の物置にあるかもしれないけど、私が見てわかるかなぁ?」
葉月は物置に置いてある、大量の缶やボトルを思い出して頭を捻った。
その時、後ろから男性の声がした。
「シリコンスプレーかミシン油をつければ直りますよ」
後ろを振り向くと、そこに賢太郎が立っていたので、葉月は驚いて声を上げた。
「あっ! あなたは……」
「どうも! またお会いしましたね」
「ど、どうしてここに?」
「月曜日から、そこのマンションの一室を借りてるんです」
「えっ?」
葉月は更に驚く。
「えっと……お二人はお知り合いなの?」
「ううん、この前たまたまそこの坂道で落とし物を拾っていただいたの」
「その前にも、偶然レストランでお会いしましたよね?」
賢太郎は穏やかな笑みを浮かべ、柔らかな口調で言った。
「へぇ、すごい偶然! じゃあ、偶然ついでにお願いしちゃってもいいですか? この音、なんとかなりませんかね?」
莉々子は困ったように、再度ドアを開け閉めして大きな音を鳴らした。
すると、賢太郎はドアの傍まで行き、ドアを動かしながら不具合をチェックする。
「ん? ここのネジも緩んでいるみたいですね」
「あ、あの、だ、大丈夫ですから……業者さんを呼んで見てもらいますから」
「これくらいで呼ぶなんてもったいないですよ。出張費とかって、結構取られちゃいますからね」
「そうそう、葉月ちゃん、もったいないよ。それに葉月ちゃんのお父様が、メンテナンスの道具を持ってるんじゃない? お父様がお元気だった頃は、不具合があるといつも直して下さってたから」
「あるんですか?」
「いえ……物置に行って見ないと……」
「ちょっと見せてもらってもいいですか?」
「あ、はい……」
葉月は恐縮しつつ、庭にある物置まで賢太郎を案内し、扉を開けて中を見てもらう。
「あ、ありました。これですね。この工具もお借りしていいですか?」
「どうぞ……」
道具を手にした賢太郎は、再びアパートへ戻り、早速修理を始めた。
賢太郎が作業をしている間、莉々子がヒソヒソと葉月に耳打ちする。
「超イケメンじゃない? 葉月ちゃんチャンスチャンス!」
「ち、違います……そういうんじゃないですから」
「私達よりも2~3歳下かな?」
「多分そうですね」
「キャッ、いいじゃない? 葉月ちゃん、年下はいいわよぉーーー」
莉々子の夫は、彼女よりも五つ年下だったので説得力がある。
「本当に違いますから……」
葉月は苦笑いをしながら、莉々子に言った。
一方、賢太郎は、ネジの緩みを直した後、ドアの金具部分にスプレーを吹きかけ、ドアを大きく開閉してみた。
「あ、すごい! 音が消えたわ」
「本当!」
「これでもう大丈夫だと思いますよ」
「うわぁ、ありがとうございます。助かったー」
「本当にありがとうございました」
葉月は恐縮しながら頭を下げた。
「いえいえ、困った時はお互い様ですから」
賢太郎はドライバーを工具箱にしまうと、スプレー缶と共に物置へ戻しに行こうとする。
葉月は慌ててそれを止めた。
「あ、そのままで大丈夫ですから」
「そう?」
「あの、本当にありがとうございました」
「お役に立てて良かったです。じゃあ、失礼します」
賢太郎は二人にニッコリ微笑むと、坂道を下りて行った。
思わず二人は、賢太郎の笑顔に見とれてしまう。
「ちょっとぉーーー! なんてキュートな笑顔なの?」
「ですね……」
「それになにぃー? あの声ヤバくない? ソフトで優しくてなんか耳に心地良くて……ベッドの上であの声で囁かれたら、私、絶対腰が砕けちゃう~~~」
「フフッ、そんなこと言ったら雅也さんに怒られますよ」
「うふっ、妄想くらいいいじゃなーい! でも、あのハンサムな顔、どこかで見たような気がするのよねぇ……」
そこで葉月は慌てて言った。
「あっ、もうすぐ航太郎が帰って来る時間だわ。じ、じゃあ私はこれで」
「あ、うん、葉月ちゃんありがとう! 助かったわ。また今度お茶しようねー」
「はい! 是非!」
莉々子と別れた葉月は、物置へ向かう。
そして工具箱とスプレー缶をしまいながら、こう思った。
(びっくりしたー! まさかまた会うなんて! それに隣のマンションに住んでるなんて……航太郎が知ったら大騒ぎだわ」
息子の驚いた顔を想像しながら、葉月はフフッと笑ってから物置の扉を閉めた。
コメント
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賢太郎さんすごく葉月ちゃんを気に入っている感じ 押しが強く感じさせないけど 大事なところでさりげなく助けて さりげなく去る感じ 良いな❣️ 印象に残る感じよね
賢太郎さん手先も器用なんて頼りがいがある〜💕 声も素敵なんて想像掻き立てられます😍
賢太郎さんのソフトな声🤩それに器用な手先がいいっ🤭 思わず見惚れちゃうね( *´艸`)クスクス💕💕 航太郎くんがこの状況知ったら大喜びだろうな(*ˊᗜˋ*)w𐤔