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廊下の騒がしさが消え、教室が真空のように沈む頃。遥は、黒板の前の席にひとり、座っていた。何も書かれていないノートを開いたまま、視線はどこにも向いていない。
その空気を割って、蓮司が入ってくる。
音を立てずに近づき、隣の席に腰を下ろした。
「……この時間、落ち着くよな。騒がしいの、全部終わってて。誰も見てない。聞いてない」
遥は動かない。反応すらしない。
蓮司は、少しだけ身を乗り出す。
「昔の話、してもいい?」
遥の睫毛が、一瞬だけ微かに動いた。
「小学校、だよね。教室で吐いたことあったって。ずっと黙って耐えてたら、誰かが気づいた頃には、胃液だったって」
遥の手が、机の下で小さく震えた。
「その日から、呼ばれた名前──“毒持ち”。『誰かを壊すから、近づかないほうがいい』って。覚えてる?」
蓮司は、ただ語る。淡々と、過去を撫でるように。
「中学では、“密告魔”だった。“いじめられてたくせに、誰かがやられるのは見て見ぬふりだった”って。で、突然何かが爆発して、“全部こいつのせい”って」
遥の指がノートの端を握る。
「でもさ、誰かを傷つけようとしたわけじゃないよな。ただ、黙ってただけなんだよな。全部見てたくせに。何も言わなかった」
沈黙。
「でも、それって──加害じゃないの?」
遥はゆっくり、顔を伏せた。
「だれにも、何も言えなかった。それって、“逃げた”ってことじゃない? “許した”ってことじゃない。見て見ぬふりしたことで、地獄を延ばした加害者”なんだよ、遥」
蓮司の声は優しく、低く、穏やかだった。
まるで彼を責めるのではなく、「もう認めたほうが楽だ」と言っているように。
「……そういう人間が、“誰かを守れる”と思ってんの? 本気で?」
遥はもう、まっすぐ前を見ることもできなかった。
見下ろすノートの白紙の中に、何かが浮かび上がるかのように、ただ震えていた。
「もういいよ。無理しなくて」
蓮司はそれだけ言うと、立ち上がり、何も言わずに去っていった。
扉が静かに閉じる音が、遥の鼓膜に深く、重く沈んだ。