ロッカーの前で着替えをしていると美奈子のスマホがブーブーと震えた。
美奈子はスマホをチェックしてから急に着替えるスピードを速めて言った。
「杏樹、悪い、先に行くね。孝輔が近くまで来てるって言うから」
「へぇ、平日に珍しいですね」
「たまたま近くまで来ていたらしいわ。じゃあお疲れ様、また明日ね」
美奈子はバッグを手にするといそいそとロッカールームを後にした。
(フフッ、相変わらず仲がいいのね……)
杏樹は少し羨ましくなった。
少し前までは杏樹にも正輝がいたので羨ましいなんて思う事はなかった。しかし今は違う。
改めて杏樹は今ひしひしと孤独を感じていた。
(でもくよくよしたって仕方がないし……)
杏樹は気持ちを切り替えるとロッカーの鍵を閉めて部屋を出た。
他の女子行員達は既に銀行を出ていたので杏樹が最後だった。
途中階段で得意先課の行員とすれ違ったので挨拶をしてから通用口へ向かう。
ドアを開けて外へ出た時突然声が響いた。
「お疲れ!」
びっくりした杏樹が声の方を向くと副支店長の優弥が立っていた。
優弥は缶コーヒーを手にし長い足を組んで壁に寄りかかっていた。その姿には男の色香がプンプンと漂っている。
捲り上げたワイシャツの袖口からは逞しい腕が見えていた。思わず杏樹はごくりと唾を飲む。
優弥の腕を見た途端、自分はあの逞しい腕に一晩中抱かれていたのだと思い出す。
「お、お疲れ様です」
優弥はゆっくりと身体を起こすと杏樹の傍まで歩いて来た。
「驚いた?」
「は? え? 何がでしょうか?」
杏樹は咄嗟にとぼけた。ここはとぼける戦術で貫く事にする。
「忘れる訳ないよなぁ、俺達はあんなに熱~い一夜を過ごしたんだから」
優弥の含みを持たせた言い方に思わず杏樹がムッとする。
「ハァッ? 私には何の事かさっぱりわかりません」
「ククッ……あくまでもしらを切るつもりか」
「い、急ぎますのでお先に失礼しますっ」
杏樹がその場を去ろうとした時優弥が杏樹の腕を掴んで引き寄せた。
気付くと杏樹は優弥の腕の中にすっぽりと包まれていた。
「ちょ、ちょっとやめて下さい。誰かに見られますよ」
「大丈夫だ、ここは死角だから見えない」
「でも得意先課の誰かが戻ってくるかもしれないし」
「もう全員中にいるから心配ない。逃げようったってそうはいかないぞ」
優弥は余裕の笑みを浮かべる。
「一体どうしたいんですか? 私を脅す気ですか?」
杏樹の切羽詰まった声を聞いて優弥は一瞬キョトンとする。
それから声を出して笑った。
「ハハハッ、どうやったらそんな思考回路になるんだ? 君は面白いな」
「だ、だって、私だってあなたが上司になる人だとわかっていたらあんな事はしませんでしたから」
「じゃあ俺以外の男なら喜んで寝たのか?」
「ハッ? そういう事を言ってるんじゃなくて……」
「俺じゃなくても寝たのかって聞いてるんだ。正直に答えろ」
「わ、わかりません……あの時は酔って自暴自棄になっていたので……でも見ず知らずの人とあんな事をしたのはあの時が初めてです…」
その瞬間優弥がホッとしたように息を吐く。そして杏樹をギュッと抱き締めていた腕をそっと外した。
「ま、これからは同じ職場で働くんだ。俺も仕事の上では私生活を持ち込む気はないから安心しろ」
その言葉に杏樹はホッとする。
「ありがとうございます」
「その代わり……」
「?」
「俺はお前を必ず堕としてみせる。だから覚悟をしておけ」
優弥の言葉の意味がすぐに理解出来なかった杏樹はつい素直に頷いてしまう。しかしすぐにハッとして慌てて声を上げた。
「ハァッ? それはどういう意味ですか?」
「言葉の通りだよ」
「えっ、ちょ、ちょっと待って下さい、堕とすって?」
「メロメロになるほど俺に惚れさせてやる」
杏樹はあまりにも自信満々な優弥を見て呆れた顔をした。
「それは絶対にありませんっ、断言出来ます」
「どうして言い切れるんだ? あの夜君は俺の腕の中でとろけてたじゃないか、違うか?」
「ち、違いますっ」
「いーや違わない。身体を虜にした後は心だ。俺は必ず君の心を堕としてみせるから覚悟しろよ」
優弥はもう一度杏樹をギュッと抱き締めると杏樹の頭にチュッと音を立ててキスをした。
そして笑顔のまま手を挙げると通用口を開けて中へ戻って行った。
杏樹はただただ茫然とその場に立ち尽くしていた。
ぼーっとしたまま家に戻った杏樹は精神的な疲労でぐったりとしていた。
今日は朝から変な緊張に包まれた一日だった。おまけに帰り際にあんな事があったのだ。疲れて当然だ。
(いったいあの男は何を考えているの?)
杏樹はぐるぐると思いを巡らせてみたが一向に答えは見つからなかった。
(もしかしてあの男は根っからの性悪プレイボーイとか?)
思わず杏樹はゾクゾクッと震える。
もうこれ以上何も考えたくなかったのでその晩は早めに就寝した。
昨夜早く寝たお陰で翌朝杏樹はすっきりと目覚めた。昨日の疲労はすっかり消えている。
とにかくどうあがいてもこれからはあの男と同じ職場なのだ。変えられない現状にいちいちやきもきしても労力の無駄のように思えてきた。
副支店長の地位ともなれば周りの目もあるので行内で気安く杏樹に接してくる事もないだろう。
だから杏樹もなるべく優弥を避けるようにして上手く立ち回ればいいのだ。
そう考えたら少し心に余裕が生まれてきた。
(よしっ、負けないで頑張るぞっ!)
杏樹は気合を入れてから職場へ向かった。
この日優弥は朝から副支店長席に座っていた。副支店長席は1階営業フロアの後方中心部にある。店全体を見渡せる位置だ。
時折背後から突き刺さるような視線を感じたが杏樹はあえて平常通りに仕事をしていた。
(副支店長席にいる男は巨大なクマのぬいぐるみだと思えばいいのよ)
杏樹は脳内で優弥をクマのぬいぐるみに置き換える。
そこで思わずプッと笑ってしまう。
一人で笑っている杏樹の事を隣にいる美奈子が怪訝な顔で見ていた。
杏樹の考えた作戦は見事功を奏し、その日一日なんとか無事にやり過ごせた。
この日閉店後の勘定は見事に一発で合った。
今日は早帰りデーの水曜日なので1階フロアにいる女子行員達はいそいそと片付けを始めた。
しかしいつもはさっさとロッカーへ向かうはずの女性陣はいつまでたってもフロアに残っている。どうやら彼女達のお目当ては副支店長のようだ。
杏樹が元方の美奈子の手伝いをしながらチラリと後方を見ると、女性行員達は副支店長のデスク周りへ集まってお喋りを始めていた。
涼子と絵里、沙織、そして新人テラーの真帆までもが優弥の傍にいる。
「副支店長って独身なんですかー?」
「ん? そうですよ」
「恋人はいるんですか?」
「さあ、どうかな?」
「えっ? 秘密なんてズルーい」
「でも何で今まで結婚しなかったんですかー?」
「うーん、なんでかなぁ。縁がなかったんだろうな」
「結婚願望はあるんですか?」
「もちろんありますよ。でもこればっかりは縁がないとね…」
「「「そうですよねーっ♡」」」
優弥の周りが賑やかな笑い声に包まれる。そこで今度は優弥が女性達に質問をした。
「君達は彼氏はいないの?」
「あーっ、副支店長、そういう質問は今の時代セクハラになっちゃいますよー♡」
「え? だって君達もさっき聞いたじゃないか」
「「「それはそうですけどー♡」」」
そこでまたどっと笑いが起こる。
賑やかな様子を横目に見ながら美奈子が呆れ顔で言った。
「___ったく、みんな色目を使って必死だ事!」
「いいんじゃないですか? 副支店長もまんざらでもなさそうだし」
「それはそうだけど…でもさ、あのハイスペックな超エリートが支店の女どもを相手にすると思う? 本部にはもっと仕事も出来て華やかな美女たちがいっぱいいるのよ」
「確かに……」
「彼ならモデルや女優と付き合っててもおかしくないスペックだしねぇ」
「そうですね」
「だからアタックしたって無駄なのにー」
「まぁそうかもしれませんが……」
「そう言えば杏樹は副支店長に興味ないの?」
美奈子の鋭い質問に杏樹はドキッとする。
「全くありませんっ! それにもう恋愛は懲り懲りですからっ!」
杏樹は思わず大声で言い返した。
その声に驚いた女性行員達が一斉に杏樹の方を振り返る。もちろん優弥もこちらを見ていた。
杏樹は急に恥ずかしくなり真っ赤な顔をしたまま美奈子に言った。
「先輩、早く行きましょうっ」
杏樹が美奈子の背中を押して急き立てたので美奈子は「はいはい」と言いながら歩き始めた。
「「お先に失礼しまーす」」
二人は挨拶をしてからその場を後にした。
ロッカーで着替えを済ませると二人は駅へ向かう。
「あー、それにしてもさっきは恥ずかしかったー」
「フフッ、杏樹興奮し過ぎ」
「だってつい……」
「それより引越しはもうすぐでしょう? 準備は間に合いそう?」
「余裕です。もう使わない物は全て段ボールに詰めました」
「そっか、荷物減らしておいて正解だったわね。じゃあいよいよ3日後にはタワマンの住人かー」
「はい。凄く楽しみです」
「タワマンの何階なの?」
「40階です」
「よっ、よんじゅうーーーっ?」
「はい。伯父が持っている物件は全て資産価値が高い高層階ですから」
「あ、伯父さんってたしか投資家だったもんね」
「はい。でも部屋は2LDKなのであのタワマンの中では狭い方かな? 同じ階の中では一番狭いみたいです」
「一人だったら2LDKでも充分過ぎるでしょ? いいなぁ、私もそんなマンションに住みたい」
「先輩と孝輔さんだったら共働きのパワーカップルだから頑張ればタワマンも買えそうですけどねー」
「定年まで目一杯ローンを組んだら買えなくもないけど、そうすると子供の教育費やらなんやらがなくなっちゃうから無理なのよねー。あーいいなぁ羨ましい」
「私だって自分の持ち家じゃないからいつまでも住めるとは限らないし…。まあ束の間の贅沢を楽しむ事にします」
「そうだよーせっかくだからいっぱい楽しみなよ。それにしても森田は馬鹿だなぁ。杏樹と交際を続けていたらもしかしたらタワマンに住めたかもしれないのにね。意識高い系を装うあいつは絶対タワマンとか好きだよねー」
「…………」
「あ、ごめんごめん、冗談が過ぎたわ」
「いえ、気にしないで下さい……」
駅へ着くと二人は別れた。
杏樹はホームへ続く階段を下りながら先ほど美奈子に言われた事を思い返していた。
(もしあのまま正輝さんとの交際が続いていてもし結婚って事になったら一緒にタワマンに住んでいたのかな?)
杏樹はそんな事を思いながら地下鉄のホームを歩いて行った。
コメント
48件
テラーさん慣れないけど頑張って更新追いつきます✊
民族大移動の波に乗って、お馴染みの皆様のペコメ見れるのが楽しいです🤩❗️ 杏樹ちゃんは優弥さん=🧸に変換してやり過ごしていたけど、熊は肉食獣ですからね〜🤣 これからの二人の攻防戦、楽しみです😍
キャア~( 〃▽〃)(*/□\*)♡ 「お前を堕としてみせる」 だ.って...イヤ~ン♡ 優弥さん、攻めてきましたね~♡( *´艸`) 杏樹ちゃんが どんな風に堕とされちゃうのか、ドキドキ💓ワクワク♪