その後杏樹は優弥との接触はほとんどなかった。
一度だけ課長が席を外している時に検印をもらいに行ったくらいだ。
そして三日後の土曜日、いよいよ引越しの日となる。
朝から引越し業者がマンションに出入りして次々と荷物を運び出してくれる。
単身世帯の部屋の荷物はあっという間に運び出された。
杏樹は引越し業者のスタッフがトラック内の荷物を整理している間に先に新居へ向かった。
電車で30分かけて移動し駅から数分歩いてタワマンへ向かう。
マンションへ到着するとまだ引越し業者のトラックは来ていないようだ。この時期は行楽の季節なのでおそらく渋滞に巻き込まれているのだろう。
杏樹はまずマンション内のフロントへ挨拶に行く。ちゃんとした挨拶は引越しを終えてから再度来る事にする。
するとフロントにいたコンシェルジュの女性が笑顔で言った。
「樋口様からうかがっております。何かお困りの事があれば遠慮なくお申し付け下さいませ」
「ありがとうございます」
杏樹は会釈をしてからエレベーターへ向かう。
(さすがタワマン……ホテルみたいな対応だわ)
そんな素敵なマンションで今日から新生活をスタートするのだと思うと心が弾んでくる。
失恋の痛みはどこへやら? といった感じで杏樹の心はすっかり元気になっていた。
エレベーターで40階まで上がると廊下を進んで行く。
昔一度伯父と内見に来た事があったのでその時の記憶を辿りながら部屋へ向かった。
杏樹が住む部屋は一番奥の角部屋の一つ手前だ。
部屋のドアの前まで行くと一番奥の角部屋のドアが開け放たれていた。
内廊下のふかふかの絨毯の上には家具や段ボール、それにいくつかの電化製品が積み上げられている。
(お隣さんも今日が引越し? これから入るのかな? それとも出て行くのかな?)
杏樹はそう思いながら置かれた荷物をちらりと見る。
そこには以前杏樹が家電量販店で見て気になっていた低温調理器やずっと憧れている高級電子レンジ、
そして座り心地の良さそうな革張りのパーソナルチェアなどが置かれていた。
(そっか、このマンションの角部屋ってホテルのスイートルームみたいに一番いい部屋だって伯父さんが言ってたわね)
おそらく隣は金持ちの家族世帯なのだろう。そう思いながら杏樹は鍵を開けて中へ入ろうとした。
その時隣家の開け放たれた入口の奥から声が響いた。
「あ、ちょっと待って下さい! 先にダイニングテーブルを持って来てもらえますか? かなり大きいので」
なんとなく聞き覚えのある声のような気がしたが杏樹は気にする様子もなくドアを開けて中へ入ろうとする。
そこへ突然二人の男性が現れた。
杏樹が振り向くとそこには引越業者のスタッフと見覚えのある男性が立っていた。
それが誰なのかわかった瞬間杏樹の身体が硬直する。
「えっ? 副支店長? な、なんでここに?」
優弥も驚いた様子で杏樹を見つめていた。
「君こそなんでここに?」
「今日ここに越して来たので…」
その言葉を聞き優弥は更に驚いている様子だった。
そして杏樹の部屋のドアを指差して聞いた。
「この部屋?」
「そうです」
その時引越業者の男性が声を出した。
「あのぉー……」
「あ、すみません、じゃあお願いします」
「承知しました」
スタッフは軽快な足取りでエレベーターへ向かった。
すると優弥はもう一度確認するように杏樹に聞いた。
「今日からここに住むの?」
「そうです」
「一人で?」
「はい」
「ここの家賃って高いよな? 払えるのか?」
優弥は杏樹が銀行の給料だけここに住めるのかと心配しているようだ。
優弥は上司なので杏樹の給料の手取り額を把握しているので心配するのも無理はない。
「あ、はい。実はこの部屋は伯父が所有しているので」
そこで優弥は納得したように頷く。
「そういう事か。それにしても奇遇だなぁ」
「副支店長こそなぜここに?」
「ああ、最近この部屋を買ったんだ」
「買った?」
今度は杏樹が驚きの声を上げる。
いくら独身のメガバンクエリート行員だとしてもこのマンションはそう気安くは買えないだろう。
一番安い物件でも一億超えだと伯父が言っていたのを杏樹は覚えている。
そのマンションの一番広くていい部屋だ。サラリーマンが買えるはずがない。
「ふ、副支店長こそ買えるんですか? こんな凄いマンションを…ポンと?」
「まあな……」
優弥はニヤッと笑うとそれ以上は答えなかった。
その時優弥の部屋から引越スタッフの声が響いた。
「すみませーん、ちょっといいですかー?」
「今行きます」
優弥は部屋に戻る前に杏樹を振り向いて言った。
「じゃあ今日からはお隣さんって事でよろしく!」
そう言い残すと優弥は部屋の中に戻って行った。
杏樹はポカンとしたまましばらくその場に立ち尽くしていた。
(まさか副支店長が隣人に?)
杏樹は呆然としながらドアを開けて自分の部屋に入る。そして靴を脱いで廊下を歩きながらこう考えた。
(そうよ、関わらないようにすればいいのよ、職場でもマンションでも。向こうだってプライベートは守りたいだろうから)
杏樹はそう自分に言い聞かせると気持ちを切り替えて荷物を迎える準備を始めた。
引越しは無事に終わり昼過ぎには業者が引き上げていった。
荷解きをする前に杏樹は用意しておいた菓子折を持ってフロントへ挨拶に行った。
先ほどのコンシェルジュがいたので再度きちんと挨拶をしてからエレベーターで40階へ戻る。
(ああ……引越しの挨拶はどうしよう)
とりあえず現実を見たくない杏樹は優弥の部屋とは反対側の部屋へ向かう。
このタワマンは中心部が吹き抜けになっている為向かい側に部屋はない。だから杏樹は両隣へ挨拶に行く予定にしていた。
左隣の部屋の前に行った杏樹はすぐにインターフォンを押した。すると年配の女性の声が聞こえた。
「はーい」
「あの、隣へ引っ越して来た者ですが」
「ああ、はいはい、ちょっと待っててねぇ」
1分ほどするとドアが開いた。
玄関にはシルバーグレイの髪を綺麗にアップにした70歳前後の女性がにこやかに立っていた。
女性はとても上品でエレガントな雰囲気だ。
「あの、隣に越して来た桐谷と申します。これ、つまらない物ですが」
すると女性はにこやかな笑顔で言った。
「まあわざわざご丁寧にありがとうございます。わたくし古田敏子(ふるたとしこ)と申します。何かわからない事があればいつでも聞いて下さいね」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
杏樹はお辞儀をしてからドアを閉めた。隣は優しそうな婦人だったのでホッとする。
しかし今度は優弥の部屋の方を見て憂鬱な気分になる。やっぱり挨拶に行かないといけないのだろうか?
その時急に部屋のドアが開いて優弥が出て来た。優弥も菓子折のような紙袋をいくつか手にしていた。
「おっ、ちょうど良かった。これ、挨拶な」
優弥は廊下にいた杏樹を見つけると近づいて来て紙袋を一つ渡した。
その紙袋のロゴを見た杏樹の目が輝く。
(高級マカロンだわ、やった!)
「ありがとうございます。私もちょうどご挨拶に伺おうかと……)
杏樹は用意していた青山の人気洋菓子店の紙袋を優弥に渡す。
優弥の高級マカロンと比べれば少し落ちるがデパ地下に入っている有名店の品だ。
「あっ、でも副支店長って甘い物大丈夫ですか?」
杏樹は咄嗟に聞いた。
「食べるよ。甘党男子だからな」
優弥が『甘党男子』というフレーズを口にしたので杏樹は思わずクスッと笑う。
「ありがとう。後で休憩の時にいただくよ」
そして続けて杏樹に聞いた。
「君の部屋の隣にはもう行った? どんな人だった?」
そう聞かれた杏樹は、初めて優弥が普通に話しかけてきたような気がして新鮮な気持ちになる。
「とても上品で優しそうなご婦人でした」
「そっか、じゃ行って来るかな」
優弥はそう言うと杏樹に手を挙げてから古田家に向かった。
杏樹は優弥の後ろ姿を横目に見ながらドアを開けて部屋に入った。
そしてドアの鍵を閉めてからフーッとため息をつく。
「上司が隣人だなんて……なんだか先が思いやられるわ……」
そう思いながら杏樹はリビングへ戻って行った。
コメント
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まさかのお隣(*ノェノ)キャー
以前にもあって、それはブラウザで読んでる場合でした。数時間後読めます。今回はアプリの方もだとすると、待つしかないですね。
ノルノルさんもですか? 私も読んでる途中で読めなくなってしまいました