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2027年3月。雪解けの朝、朝風通りの石畳は、冬の名残を細く光らせていた。屋根から落ちたしずくが、日に当たって静かに跳ねる。山からの風はまだ冷たいのに、通りの匂いはもう少し春に近い。
花屋「花は散らない」の前には、朝から注文票が並んでいた。
卒業祝い、送別、開店祝い、帰郷祝い。誰かが去る花と、誰かが戻る花と、誰かが始める花。紙の上に書かれた行き先が、去年の夏よりずっと多い。
ハヤは店先で花を包んでいた。甘い名札は、いまでは出勤のたび自然につける。白い紙の角が少し丸くなっているのは、何度も触った証拠だ。
「ハヤさん、その卒業祝い、もう少し明るめで」
エフチキアが水揚げ台の向こうから言う。
「分かった。じゃあこっちの色を足す」
ノイシュタットは配達表を抱えて店へ飛び込んできた。冬のあいだに彼は、演出より先に配達順を考える人間になっていた。とはいえ口だけは相変わらずだ。
「大変だ、語りと花の店が、語る暇もなく花を売っている」
「働いてください」
ハヤが言う。
「すでに働いている。ほら、この表は愛だ」
「配達順です」
そのやり取りに、澄江が奥から笑う。アンネロスからは焼き菓子の追加が届き、ジョンナは次の春の語り会の資料を抱えてきた。エルドウィンは共同便の荷台を確認し、オブラスは月次表を静かに置いていく。ドゥシャンは神社から預かった小さな相談事をまた一つ持ち込んで、皆に「まず紙に書いて」と叱られていた。
店の外では、新しい看板を見上げた若い客が母親に言う。
「ここ、名前で呼んでくれる店なんだって」
その言葉に、ハヤは手を止めた。
去年の夏、名前を言わないまま働いていた自分を思い出す。無名のままでいれば、楽に終われると思っていた。けれど今は違う。名前を呼ばれるたびに、ここへいていいのだと少しずつ思える。
花を包み終えて顔を上げると、店先に立つ客が笑った。
「ありがとう、ハヤさん」
その呼びかけに、ハヤも笑って答える。
「こちらこそ、ありがとうございます」
山の町で、閉店寸前だった小さな花屋は、誰か一人の手柄で生き残ったわけではない。名を失いたくない人たちが、それぞれの得意と失敗を持ち寄って、少しずつ上ってきた結果だった。
成り上がったのは、一人ではない。
花屋も、焼き菓子店も、神社も、通りも、そこで働く人たちも、皆で少しずつ、自分の名を名乗れる場所へたどり着いたのだ。
朝の光が看板に当たる。
花は散らない。
手から渡り、記憶へ残り、また誰かの明日を開くなら。
雪解けの雫が石畳へ落ちる。
店の扉が開き、次の客が入ってくる。
そのたびに、町の新しい循環が、静かに、確かに続いていく。