数日後の昼休み、葉月は会社の休憩室でサンドイッチを食べながらぼんやりしていた。
そこに大崎が現れる。
「芹沢ちゃん、どうした? ボーッとして」
「あ、大崎さん、お疲れさま」
「何か悩みごと?」
「まあいろいろと……」
「いろいろ? そんなにいっぱいあるのか?」
「最近順調な大崎さんとは違いますからねー。そういえば、娘さんの誕生日会に招待されたんでしょう?」
「そうなんだ。今度の土曜日にね」
「良かったー、うまくいってるんだー」
「お陰様でね。だから余裕のあるこの俺様が、なんでも聞いてやるぞ! 一体何があった?」
そこで葉月は、土日の出来事を全て大崎に話した。
「元旦那が急に? なるほど。まあ、同じ男として、少しわかる気もするなぁ」
「どんな風に?」
「失ってみて初めて気づいたんだろう?」
「ハァ? 何をいまさら? 自分が不貞を働いて、全てをぶち壊したくせに」
「だから男ってのはバカなんだよ」
「感傷に浸る暇があって羨ましいわよ。こっちは子供を抱えて、大変な思いをしてるっていうのに。私だって感傷に浸りたいけど、そんな暇なんてないっつーの」
「おいおい、そんなに怒るなよ。でもさ、桐生さんがうまいこと言ってガツンとやり返してくれたんだろう? やるなぁ、桐生さんも」
「うん。あとで聞いたら、元旦那は鬼嫁に引きずられるようにして帰ったらしいわ。フフッ」
「ハハッ、じゃあ、これに凝りてもう来ないかもな」
「そうだといいけど」
そこで大崎は、缶コーヒーをグイッと飲んでから言った。
「で、その『恋人のふり』っていうのは継続するのか?」
「そんなわけないじゃない。あの時だけよ」
「本当に?」
大崎はニヤニヤしている。
「な、何よ。何もないわよ!」
「怪しいなぁ……。なんか言われたんじゃない?」
「い、言われるわけないでしょう!」
「いや、言われたな。俺にはわかる」
「何がわかるの?」
「彼に交際でも申し込まれた?」
大崎の鋭い一言に、葉月はドキッとした。
そして、賢太郎に言われた言葉を思い出す。
『ちなみに、俺は嘘にするつもりはないけど?』
「なんて言われたの?」
大崎に問い詰められた葉月は、観念したように口を開いた。
「『俺は嘘にするつもりはないよ』って……」
そこで、大崎がニンマリと笑った。
「ひゃー、カッコいいー」
「でも、多分冗談よ」
「いや、そんなことないだろう? 彼は芹沢ちゃんに好意を持ってるから、庇ってくれたんじゃないのか?」
「違うわよ。だって、彼は有名人なのよ。きっとからかってるだけだわ」
「いやあ、逆に、有名人が出逢ったばかりの女にそんなこと言うか?」
「うーん、どうかなー?」
「まあ、俺の予想が当たってたら、近々彼は何らかのアクションを起こしてくるだろうな」
「アクション?」
「そう。行動に移すってことよ」
「フフッ、それはないと思うなー」
「お? じゃあ賭けるか?」
「いいわよ」
「よし! じゃあ負けた方が缶コーヒー一本奢りね。じゃ、俺、そろそろ外回り行ってくるわ」
「あれ? タバコは?」
「ただいま禁煙中!」
「おー、ついに本気出したか」
「そういうこと! じゃあな!」
「行ってらっしゃーい」
葉月は手を振って大崎を見送った。
その日、夕食とシャワーを終えた葉月は、キンキンに冷えた缶ビールを持って庭に出た。
今日の日中は初夏のような暑さだったが、この時間になると心地良い海風が吹いている。
ウッドデッキのガーデンチェアに座りながら波の音に耳を傾けていると、江の島の灯台の灯りが時折空を照らしていた。
こうやって庭でくつろいでいると、幼い頃を思い出す。
(あの頃は、両親に守られながら、なんの不安もなく毎日を過ごしていたわね。フフッ、なんか懐かしい)
葉月は、何も考えず、ただ両親が見守る中、伸び伸びと過ごしていた子供時代を懐かしく思い出す。
そしてこう思った。
自分は息子の航太郎に、同じような安心感を与えられているのだろうかと。
(昨日みたいなゴタゴタに息子を巻き込んでいるようじゃ、母親失格だわ。もうちょっとしっかりしないと)
葉月は自分に言い聞かせると、ビールを一口飲む。
その時、隣のマンションから声が響いてきた。
「こんばんは。くつろいでるね」
葉月が見上げると、賢太郎が二階のバルコニーの手すりにもたれながらこちらを見ていた。
「あ、こ、こんばんは。夜風が気持ちいいからつい……」
「今日は夏みたいに暑かったからね。ビール美味そうだな」
「あなたも飲めば?」
「ちょうど切らしちゃってるんだ」
賢太郎の残念そうな顔を見て、葉月が言った。
「冷えたビールあるよ」
「いいの?」
「うん。この前のお寿司のお礼に」
「じゃあ、ご馳走になろうかな」
「今持って来るね。庭に入って待ってて」
「了解」
そして葉月は、賢太郎用のビールを取りにキッチンへ向かった。